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手を離す優しさ
 安息の日曜日が遼に呼び出されて潰された。
 同じく呼び出され休日返上で俺を迎えに来た、遼の秘書である白石――本名、安沢瞳に散々八つ当たりじみた文句を言い、仕方なく車に乗せられ今に至る。
 午前中だけでも休めて良かったと思えってか。

 ビル群の中を赤い軽が突き進むのを想像すると少し気分が晴れる。
 大きなクリップで留められた書類を読み終え、何気なくガラス越しの外を見ると、ふよふよ風船が空に浮いていた。白鳥は悲しからずや……大方、遼ならここで若山牧水の歌がキザったらしくなく出てくるんだろう。現状をそのまま受け止めるタイプだから。

「なあ、安沢っ」

 身を乗り出し、助手席のシートを掴むと安沢は嫌そうにこっちを流し見た。

「……何よ? 私は運転に集中したいんだけど」

 ラッキーなことに、信号は赤になったばかりだ。

「今は赤じゃん。良いからちょっと見て、外。ふーせん!」

 視線を上げて器用にビルの間を通り抜けていく風船を捉え、「ああ」と訳知り顔で呟く。俺が見込んだ通り、安沢は何でこんなところで風船が飛んでいるのか知ってるようだった。

「何で風船ごときでそんなハイになれるんだか。二百円」

 だって面白い暇潰しじゃん。最近こいつとは仕事の話ばっかで雑談してなかった気がするし。それにしても情報料に二百円は高い。

「そこをどーにか。百円」
「百五十円で手を打つわ」
「分かった、それで」

 無造作に、と言えば聞こえが良いが実際ぐちゃっと置かれていたコートのポケットを探り、じゃらじゃら出てきた硬貨を二枚選んで差し出す。
 安沢が受け取った硬貨をひとまずサイドポケットに放り込んだところで信号が青になった。

「定期的に日にちを決めて、来た子供に風船を配ってるデパートが近くにあるの。それが流れて来たんじゃない」

 前のめりになってる俺に気を遣ってか、のろのろと遅いスピードで車が走り出した。
 シートから手を離して後部座席に座り直すと一気に停車前の速さを取り戻してくんだから分かりやすい。
 会話を途絶えさせないためにも、気まずい空気になる前に話を振った。 

「それどこのデパート?」
「まさか行く気?」

 どうやら安沢の中で俺は子供扱いされてるらしい。自業自得だけどへこむ。

「……なわけねーじゃん。お土産に持ってくとしても、晴乃は風船嫌がるから」

 詳しく言えばヘリウムガスを入れてぷかぷか空を飛ぶ風船を嫌がる。空気入れただけの風船なら普通なんだけど。
 相手は運転手だから返事を求めず、つらつら説明を続けると安沢は「へー」と短く言った。意外って感じの言い方だ。

「そういうの好きそうだと思ってた」

 だろーな、晴乃は見た目からしてふわふわしてるから。俺は苦笑して、それから小さな頃の晴乃を思い出した。

 全てが作り物みたいにちっちゃいのに元気いっぱいで、本家とか分家とか関係なく夕暮れになるまで遊んで。くたくたになっても晴乃は遼の傍にいたがってた。

 頻繁に夕飯を一緒に食べ、帰る際には嫌だとぐずり、また明日ねと約束してよーやく家に戻っていく毎日。
 あまつさえ遼に髪を結ばせていた過去を、晴乃が思い出したらどんな顔をするかな。恥ずかしくて真っ赤になるなきっと。

 断言できる。
 遼は晴乃にだけは甘かった。
 そしてあの時は偶然、遼の優しさが風船を嫌がるきっかけになったんだっけ。 

「好きは好きなんだろーな。……昔、まだ晴乃の家の隣に住んでた時、父親が俺達兄弟に風船を持って帰ってきたんだ。赤と青の風船を一つずつ。遼は迷わず赤い風船を取った」
「青じゃないの?」

 すかさず安沢がそう訊いてきた。確かに遼のイメージには合わない。父親だって俺に赤、遼に青を想定してたんだろう。

「晴乃にあげようとしてたんだって。ちょこちょこ点数稼ぎして、あいつ」
「……で?」

 もったいぶって言わずにいると、早く言いなさいよ、とバックミラー越しに睨みながら続きを急かされた。
 反応が面白くてにやついたら更に厳しく怒られた。割に合わねー。

「ところが晴乃はその日はウチに来なかった。その間に家の中にあった赤い風船はしぼみ、俺の風船は遊び倒された後の残骸になった」
「割ったのね」
「そうとも言う」

 アルミ製ならまだしも、一般的にゴム製の風船はヘリウムガスが抜けやすい。
 元々滅多にワガママを言わなかった遼だし、風船をくれた父親に別の子にあげると言い辛かったのもあるんだろう。遼はガスをもう一度入れる手段を取らなかった。
 かと言ってろくに飛ばなくなった風船を割って捨てることもしなかった。

「遼は遊びに来た晴乃に見つからないように風船を隠したんだけど、偶然それを晴乃が見つけちゃって大泣き。飛べなくなってるなんて可哀相、って。どうしてこんなことするのって責められて、暫く遼は晴乃に口利いて貰えなかった」

 以来、晴乃はいつかしぼんでしまう飛ぶ風船を嫌がるようになりましたとさ。昔話風に締め括ると安沢はふわりと顔を綻ばせて笑った。

「晴乃さま、可愛い」

 そう言ってる安沢が可愛い。

 遼と同様仕事が忙しーのは分かるけど、いつも仏頂面してないで笑えば良いのにって思……いやいや何考えてんの俺。疲れて頭がおかしくなってんじゃないか。
 考えを振り払うべく、さりげなく横に移動して安沢の顔が見えなくなるようにした。

「ンなの当たり前。……でさぁ、話変わるけど」
「はいはい」
「風船って基本、手ぇ離しちゃいけないもんだったよな? 確か鳥や海の生物の害になるとか。電線に引っかかると危ないって話も聞いた」

 そ知らぬ態度を装ってみたけど、俺の中ではけっこー重要度が高い質問だ。安沢に同意してもらえば安心出来る気がした。何にだろ、多分、晴乃を取り巻く今の状態に。
 さすが情報通と言うべきか、答えは早くて淀みなかった。

「残念ながら一概にはそう言えないのよね。あ、だからって空に飛ばすのを推奨するわけじゃあないわよ」
「ふうん……」

 俺の心情を知ってか知らずか、安沢はクスリと笑ってハンドルを切る。

 曲がるとすぐに見えてくる、車の窓から見上げるなら寝転がらないと最上階が見えないような巨大ビルが六条家の根城その一。現在遼と安沢が働いて、俺がめちゃくちゃ手伝わされてる職場だ。
 ビルの前に車が停まり、書類が入った薄茶の紙袋とコートを手に取るとよそ行きの声が聞こえてくる。会社が見えて完全に秘書モードになったようだ。

「さあ着きました、どうぞ」

 自動ドアが開いて出てきた男を見るなり、礼を言うために動きかけた口が止まった。
 何であいつがビルから出てくるんだ、よりにもよってこっちを目指して。

「……安沢、あれって遼に見えるよな」

 俺にそっくりな人間がそう何人もいてたまるか。絶対に見間違えじゃないはずだ。

「私の視力は両目とも2.5」
「よーするにアレは遼ってことだろ? そろそろ会議の時間じゃなかったっけ」

 コートを着込み、鞄を片手に持つ遼はどこから見ても外出体制。首を伸ばしてカーナビに表示された時刻を見、スケジュールと照らし合わせ考えれば残り時間は三十分だった。
 用事のために俺や安沢をパシらせることはあっても、今になって外出なんてバカなことしない……よな。

 しかし、格好からして不吉な予感がする。念のため安沢に車を動かさないよう言い置いて外に出た。
 洋服の隙間から入ってくるような冷たい風に肩を竦め、小走りで遼に近付くと軽く眉を顰められた。
 非難したいのはこっちだって。

「何してんだよお前。会議は?」

 すたすた歩いて立ち止まらない奴を追いかけ、車へとんぼ返りの形になる。心あらずの遼は俺の方を見ようともしない。
 よーやく現実世界、っていうかまともな会話をしてくれたのは車の前まで戻ってからだった。

「そう言う旭は来るのが遅かったね……? おかげでギリギリじゃないか」

 何がギリギリなんだ、とは恐ろしくて聞けなかった。
 どう返事すべきか考えている間に続けて、まるで分かりきったことを子供に説明するように面倒そうに言われる。声も何となく淡々としていた。

「必要な物は全て部屋に置いてある。旭の能力なら会議までにどうにかなるはず。ああ、代えの服があるから旭はそれを着て」
「……俺に身代わりになれと?」

 この発言から導き出される結論は一つ。俺一人で会議に出ろってことだ。
 それが遼の代理である六条旭としてか、瓜二つの外見を生かして遼本人になりきれと言ってるのかは分かんねーけど。
 遼は薄ら寒い笑顔で太鼓判を押した。

「言葉遣いさえ気をつければ完璧だよ」
「ちょっ……おい遼、何があった。晴乃がまた家出でもしたのか?」

 とたんに黙りこくるんだから反応が分かり易い。図星か。そうかついに晴乃に愛想尽かされたのか、結構遅かったな。

「――お前超ワガママだもんな。うん分かる、晴乃の判断は正しい。いっそ俺が立候補した方が良かったんじゃ」

 ガキの頃から抑圧ばっかされてたせいか、唯一ワガママが許された晴乃に関しては――手段も周りがドン引きするのも考えずに暴走する節がある。
 症状は最近、より顕著に現れるようになっていた。さっきの命令が確固たる証拠だ。

 遼の苦虫を噛み潰したような顔を見れる機会はそーそーない。反論出来ずにいるのを良いことに喋っていると、ついに「旭」と呼ばれて容赦なくデコピンされた。
 ありったけの力を込めたんじゃないかって痛みに額を押さえ、車に寄りかかる。
 マジで痛い、ひどい。

「調子に乗りすぎ。運転席にいるのは白石さんだよね、悪いんだけど代わってもらっても? 車は後でここに持ってくるから」

 後半は車の窓を拳で軽く叩き、身を屈めて安沢に話しかける。
 硬質な音を立ててガラスが下がってくのにはそう時間がかからず、何にも邪魔されない真っ直ぐな視線が遼を捉えていた。

「遼さまは馬鹿じゃないですか」

 言葉に込められた意思は強く、剣呑な目で睨みつけてるのに何だか泣きそうに見える。
 私を安沢一族の者だと知っての行動ですか、そう訊くと遼は僅かに目を見張った。でもそれきりだ。発言を撤回はしない。

 安沢の言いたいことが次第に俺にも呑み込めるようになっていた。

 遼が仕事を放り出すのは二度目。しかも一度目は雨に打たれて入院までしている。
 次期当主でいたければ安易な行動ばかり取らないで下さい、ってとこか。他の分家だと不信の種で済んでも安沢には報告の義務がある。

「よりにもよって私に言うなんて、自分からリコールしてくれと言っているようなものです。聞き足りないならもう一度言いますよ、遼さまは馬鹿です。もっと上手い方法は幾らでもあるのに」

 静かに激昂する安沢に対して、遼は困ったように笑って肩を竦めた。軽く頷いて同意さえしている。

「気付いてしまったから仕方ないんだ。次期当主の座はなくても生きていけるけど、晴乃がいないと僕は僕でいられないようだから」


 ――その感覚、俺には理解出来ない。


 生きる意味を他人に求めるのって次期当主としてどーかと思うし、俺だったら、家出くらいなら晴乃を後回しにしてまずは仕事をどうにかするだろう。
 社員とその家族、積み上げてきた歴史などの六条が持つ重みのために。

 遼の決意を聞くなり俯いていた安沢は、やがて意を決したようにしゅるりとシートベルトを外して車の扉を開けた。
 黒のパンプスが俺の横に並び立つ。

「……でも、晴乃さまにとって一番良い方法を取ってらっしゃると思います。どうぞお使い下さい」

 深々と頭を下げ、吹っ切れたみたいな顔をして綺麗に笑う。
 ……だから何で俺を置いてけぼりにして二人で結託してんの。とりあえず安沢の前に立って、その信頼してます的視線を遮ってやりたい。

 入れ替わりに運転席に乗り込んだ遼は、まず安沢に簡単に礼を言ってから膝の上の鞄に手をかけた。
 何を出すのかと思ったら、手紙を入れるような長細い白い封筒をこっちに差し出してくる。

「悪いけど旭、今夜にでもこれを晴乃に渡してやってくれる?」
「はぁ? 何で遼が渡さねーの」

 言いつつ、受け取って裏表にひっくり返してみた。署名なし。宛先に六条晴乃様とそっけなく書かれていた。

 妙に膨らんでることもなく、正直薄っぺらくて入ってるのは便箋一枚、多くても二枚程度だろうと推測出来る。
 きっちりとのり付けされてて開封したらすぐ分かるようになってた。遼からのラブレター? まさかな。だったら俺から渡せなんて言うはずないし。
 そりゃあもちろん、と遼は言う。

「僕から渡したら、あの子はショックを受けて変な誤解をしかねないだろうから」
「あ、そ……」

 何だその笑顔と自信は。反論するどころか、変な誤解って何だと問いただす気力すら出てこない。
 毒気を抜かれた、寧ろご馳走様とでも言いたいような気分で封筒を鞄の中に入れると、下がった窓ガラスを越えて手が伸びてくる。

 握られた手首に、痛みを伴う強い圧迫。
 惚気混じりのにこやかな笑みから一転して強張った表情へ。

「何があっても会社には戻ってくる。非難は全て僕が受けよう。でも本音はそれどころじゃないと思うから後は宜しく――旭がいてくれて良かった」

 さっき俺は軽く家出じゃないかって訊いたけど、事態は予想以上に大きくなっていたんだと今更気付いた。

 俺がいて良かった発言も穿った見方をすれば二重の意味に取れる。
 一つは文字通り会議に代理で出席してくれる助手の存在、もう一つは当主にもなれる遼の弟としての存在。
 頭の回転からして俺は無理だろーが、遼ならとっさに言えてもおかしくない。隣で背筋を伸ばし立つ安沢もまた、真剣な顔つきで頷いた。

「ご検討をお祈りいたします。晴乃さまに昨日はありがとうございましたとお伝え下さい」
「分かった。……それじゃ」

 ふ、と硬く引き結ばれてた唇が和らぎ、俺の手首を解放して窓ガラスを上げていく。
 別れの言葉を告げてからは見事なくらいに、こっちを見向きもしなかった。


 車が動き出すのに合わせて会社の中に入れば、横にいる安沢はケータイを取り出してメールを打っていた。
 両手打ちですんげぇ速さ。どこに目がついているのか歩きながらもすれ違う人や床においてある物を避けてる。

 話しかけ辛かったが、どーしても訊きたいことだったから打ち終えるのを見計らって声をかけた。
 エレベーターで他に人がいないのもあり、好都合この上ない。

「バラしても良かったのか? 自分が『誰』かなんてトップシークレットじゃなかったっけ?」

 あんなにも簡単に正体を言ってしまった理由。
 会社でも晴乃の前でも『白石瞳』の偽名を貫き通す安沢だから、おそらく遼にも隠していたんだろう。
 安沢自身の査定対象は俺で、もうバレてるから一人も二人も同じように思えるけど、自分から言いふらして良いかどうかはまた別だ。

 ところが安沢はエレベーター上部のランプを見ながら、「知ってたんじゃないかしら」と言った。

 話を聞くと、俺の査定には若い女性をつけてくれと頼んだ迷惑な輩がいるらしい。
 誰だかは分からないが六条家のお偉いさん。とーぜんそれは俺じゃなくて、消去法で考えれば当主か遼ということに――。
 それに、と続けて苦笑を漏らした。

「もしそうじゃなくても、遼さまが本気になって調べれば私の嘘ごときすぐバレるわよ。知っていてもうろちょろさせてくれるのが当主の器なの。
それに……隠していても仕方ないと思うし」

 付け足された言葉は、総会で安沢がマイクを取ることを示唆しているようだった。つまり今言ったって後で言ったって変わらないってこと。

「……新年総会の話、止められない?」

 ようやく、ようやくだ。一年以上もかかった。
 焦れて大きな賭けに出ようとしていた俺だけど、最近になって心を通わせようとしている二人の様子を見ると辛くなる。

 もう遅いかもしれないけど、このまま二人を見守っていたら良いんじゃないかと思うんだ。

 全てをひっくり返すことなんか出来ないと言われるだろう。自分が止めても他の誰かが動くから意味がないと。
 一瞬、安沢はそれを予期させる難しい顔をして俺から目を背けた。エレベーターの動きが止まり、ゆっくりとドアが開いていく。

「後悔はしない主義なのよ」

 ふ、と鼻で笑った安沢は傲慢で高飛車で何かを覚悟したようでもいて、胸に片手を当てる動作はその場を支配する女王のように。

「この私を誰だと思っているの。安沢の名にかけてでも何とかしてあげるわ、任せなさい」

 すたすた出て行った安沢の後ろ姿が、あの雨の日の遼と被って見えた。



 会議では立派に遼の代わりを――他の連中からは厳しい視線と生温い同情めいた視線を半々ずつ貰ったが、遼が作り上げた完璧なカンペには文句を言えず――務め、それからは残っていた俺の仕事を片付けた。
 今日の夜までのスケジュールは既に調整されてたから、俺がやんなきゃいけないことはない。

 暇になったところで安沢を先に帰し、滅多にやらない勉強に手を付け、ようやく車が戻ってきたのが八時のこと。
 遼と入れ替わりに会社を出て安沢の家に寄り、晴乃のとこを訪ねたのは十時を過ぎた。
 六条関連の場所は顔パスだから入り込むのは簡単だ。問題はその後。

 メイドの……誰だったかな、そうだ友美さん。彼女に訊けば、晴乃は帰ってきて食事を取ってからは、人、特に遼との接触を避けるようにずーっと部屋に引きこもっているとか。

 トンデモナイ理由が思いつきすぎて何も言えなかった。

「何があったんだ、って聞くのは野暮だよなあ」

 一段一段、二階に続く階段を重々しく踏みしめながら呟いた。スピードが遅いのは気のせいなんかじゃなく、普段なら使わない手すりまで使っている。

 正直、今の晴乃に会うなんて面倒だしそれ以上に気まずい。
 どう対応すりゃあ良いんだよ妙に気だるげな雰囲気とかだったら! 俺にとっても晴乃は大切な幼馴染なのに!

 足を引きずるようにしてどうにかドアの前までたどり着き、それとなく耳を澄ませる。……音は聞こえてこない。もしや泣き疲れて寝てるんだろうか。
 コン、と小さくノックして、音量も控えめにしておいた。

「開けても良い? 渡したいもんがあるんだけどー」

 数秒後には戸惑ったような声が返ってきた。いっそ返事がない方が良かったのに。

「旭くん? ちょっと待って。私、下に用事あるからそっちで話そう」

 意外に元気そうだ。

 ドアから離れ、向かい側の壁に背中を預けて待っていれば晴乃はパジャマにピンクのカーディガンを羽織って出てきた。
 人一人分の最小限に開いたドアの内側は暗く、照明を消したようで中の様子は見えない。

「……お待たせ」
「ん。下に用事って?」

 晴乃の歩調に合わせて歩き出し、問いかけると「ええと」と分かりやすくおろおろ視線を彷徨わせる。下を見ればしきりに指先を擦り合わせていて、俺に見られていることに気付いたのか、さっと両手とも体の後ろに隠された。
 頭を軽く左右に振り、口の端を吊り上げただけのぎこちない笑みを見せて先を行く。

「……ちょっと、色々作業してて。手を洗いたくなっただけなの」
「ふぅん、だからか。じゃあ後での方が良いだろーな」

 晴乃のことだ、汚い手で物を触るのは嫌だと考えたんだろう。
 勉強のことを作業と呼べるかどうかはさておいて、晴乃に続き階段を下りていくとふいに振り向くから驚いた。

「そういえば渡したいものがあるって言ってたよね、何かな?」

 差出人はもちろん中身も俺は知らない。寧ろ知りたいくらいだ、ときっぱり言えば追及はなかった。
 それよりも『そういえば』って。本当に下に行く用事があったから、そのついでに誘ったんだろうか。

「晴乃、それ考えてこっちを指定したんじゃないの?」
「え? どういうこと?」
「……まあ良いや。行ってきなよ」

 最後の一段から足を下ろし、晴乃の肩に手を添えてキッチンのある方向へと押した。
 そこまで強い力を込めたつもりはなかったんだけど、晴乃がとん、と軽くたたらを踏むととっさに「ごめん」と口走った。

 そのまま転びそうに見えた華奢な体は次の一歩で器用にバランスを保ち、肩越しに振り向く。

「大丈夫。行ってくるね」
「待って」

 柳の柔らかな強さを思わせる笑みには、正月頃に見たような儚げな様子は微塵もない。
 気付いた時には呼び止めていた。呼び止めないと何処かへ飛んでいってしまうんじゃないかと思った。

 今日見たあの白い風船みたいに。

「晴乃、風船は好き? ヘリウムガス入ってて飛ぶ奴。ゴムの、すぐ空気抜ける」 
「……好きだよ?」

 ガスなら抜けたら入れれば良いじゃない、旭くんたら変なこと訊くね。

 何でもないことのように言ってキッチンへ歩き出した晴乃は、すっかり子供の頃のことを忘れているようで。
 何ていうかこう、思いっきり肩透かしを食らった気分だった。



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