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ドア越しの会話
 挙式した時点で、私が六条家にお嫁に行くことを一番喜んでいたのは父だったように思う。
 元より私の実家である『香坂』は六条家に仕えるという視点では他家の追随を許さない点があって、父はその特徴を色濃く引き継いでいた。

 恋愛結婚だった母や娘の私を慈しむのと同じように六条家の人々を慕う。
 だからこそ父は結婚前夜に、母のいないところで私にそれを打ち明けた。
 勝手に戻って来れないように私から実家の合鍵を取り上げて。

『お前はもう香坂の娘じゃない。本家の若奥様なんだ、あちらではそれらしく振る舞えるよう努力しなさい』

 だがそれ以上に大切なことはだな。
 寂しさと誇らしさが同居したような表情で、すんと小さく鼻を鳴らす。

『何があっても遼さまの笑顔を守れ。お前が彼の唯一だ』

 ――でもお父さん。私、遼くんに迷惑かけてばっかりだったよ。


 全く実家に戻ってこない、遼くんの笑顔を守るどころか困らせてしまう。
 ……どっちの意味でも私は親不孝な娘で。
 それでも母とは折に触れて近況を連絡しあっているけど、父とは本当に、会話一つ交わしていない。

 今日は日曜日だからきっと家にいるはず。
 顔を見せたと同時に平手を受ける覚悟は電車に乗っている間で決めてきたのに、チャイムを鳴らした家からは誰も出てこなかった。
 しつこく連打しても反応がないし、庭に回ってもカーテンで閉め切られていて中が見えない。

「いない……?」

 二人で仲良く買い物にでも行ったんだろうか。
 肩透かしをくらわせられた気分で玄関に戻り、こっそり遼くんの机の中から拝借した合鍵でドアを開ける。
 合鍵はもしもの時を考えた父が遼くんに保管を頼んできたのだ、と結婚当初に教えてもらった。
 明かりが消された家の中はほの暗くて、けれど玄関には普段使いらしき靴が二足残っている。

 じゃあいるのかと考えると、すぐに玄関近くの廊下に置かれたよそ行き用の靴の箱に目がいった。開けてみれば白い薄紙が残っていて後は空。

 気になって寝室を覗いてみる。几帳面に整えられたベッドの上にクリーニングカバーが乗っていた。
 極めつけには、カレンダーの下の、予定が書き込めるようになった箇所に母の字で一言。

『ヴァイオレットホテルで六条さんと会食』

 ヴァイオレットホテルとは日本でも有数の高級ホテルで六条家及びその分家もよく使っていて、って、そんなことはどうでも良くて。
 問題はそれが今日だってことと、相手がおそらくお義父さまだってことだ。

「何これ」

 そう呟いたのが、今から数十分前だった。



 気にしないよう努めてもいつも意識の片隅でそれに気がいっている。
 クリスマスが終わってからこの方ひっかかることは幾つもあって、六条総会が近付く度に出来れば目を背けたい予感が一層強くなった。

 だって明らかに怪しい。
 秘書さんの態度、お義父さまからの呼び出し、両親とお義父さまとの会食――。

 使い慣れたキッチンでスープを保温用の水筒に入れながら物思いに耽っていると、ピンポーンと陽気にチャイムが鳴った。
 私がいることを知らない両親ならそもそもチャイムなんか鳴らさずに鍵を開けて入ってくるだろうし、と作業を中断するのも億劫で無視すれば嫌がらせめいた連続的な音が聞こえてきた。

 さっきの私と同じ行動。
 ……いったい何なんだろ。

 首を捻りながら廊下に出てはみたものの、次いで荒々しくドアを叩かれびくりと体が震えて立ち止まった。
 出て行くのが怖くなる。
 このまま誰もいない振りをして、身を潜めてやり過ごせないかな。

「晴乃。そこにいる?」

 ドアなんてないと錯覚させる明確さで聞こえてきた。はっきりとして一音もこもらぬ声はよく似た旭くんと間違えようもない。

「何で……」

 反射的に呟いたのが命取りだった。

「いるんだね。四の五の言わずにとっとと開けて。今すぐ。早く」

 玄関に下りて恐る恐るドアスコープを覗けば遼くんとまるきり同じ声をした別人ということもなく、朝会社へ出かけた時と同じ姿の遼くんが眦を吊り上げてこっちを見つめている。
 一瞬どきっとした。目が合うはずないのに。

 ……鍵を開けようとした手が、金属の部分へ触れる直前にゆっくりと止まった。何だか今開けてはいけない気がして。

「どうしてここにいるの? 遼くんはまだお仕事じゃないの?」
「全力で片付けて残りは旭に押し付けてきた。そんなに仕事をさせたいなら開ければ良いよ、晴乃を連れて家に戻り書斎で再開させれば良いしね」
「――ええと」

 ダメだ、頭が混乱してるよ。
 さっぱり意味が分からないんだけど……?

「そうそう、時間がかかっても一向に僕は構わない。開けてくれるまでずっとここにいる予定だから」

 私は玄関の一段上がったところによろよろと座り込んだ。どうやら遼くんは私をわざわざ実家にまで迎えに来たらしい、それは分かる。
他の声と気配が見受けられないから一人きりで来たことも、出来るだけ早く帰りたがっているがそれには私が必要不可欠であることも。

「遼くん」
「何」

 だとしても、どうしても分からない。
 もしや私が鈍感で気付かないのが悪いのかもしれないけど、とりあえずその昏く濁った瞳の理由を。

「何でそんなに怒ってるの?」

 ドンッ。

 おそらくは拳が強くドアに叩きつけられ、苛立ちを抑えたような――普段の穏やかな遼くんとはかけ離れた低い声が地を這った。
 幼馴染みとして過ごして数年、再会して一年半の間ここまで遼くんが怒りを露わにしたことはあっただろうか。
 いや、ない。

「本当に分からない? 分からない振りをしているんじゃなくて?」

 信用してもらえない恐ろしさに、冷えかけた足を両手で抱え込み膝の間に頭を埋めた。

 伏せた状態で、万に一つの可能性にかけて服の上から薄く肉のついた二の腕を抓ってみる。
 これは遼くんのことばかり考えていた私が私自身に見せた白昼夢じゃないかって。でも痛みを訴える腕が夢じゃないと証明していた。

「分からないの。誰に見られてるか分からないのに勝手に出歩いたから? でもそれなら遼くんはとっくに私に外出禁止令を出してるだろうし、夕食を作って待ってる約束しかしてないし」

 一方的に責められていると、どうしてが段々弱くなってどうやってが強くなる。
 この険悪な雰囲気に耐えられないから理由はないがしろにして、悪くなくても自分が引いて、いつもの遼くんに戻って欲しいと思う気持ち。

「ふうん。じゃあ何で家じゃなくここにいるのかな」
「何でって、そんなの決まって」

 使い慣れたキッチンで料理を作るためだ、と。
 そう言いたかったのに、強い嘲りを含んだ声に途中でさえぎられた。

「そうだね決まってるね。分かってるじゃないか。それなら僕が君を連れ戻しに来るのも道理だと思わない?」

 もう無理だと思ったら、いつのまにか顔が上がってこげ茶色のドアを見ていた。気がつけば声が唇から漏れていた。
 多分よく考える前に言っていたんだと思う、あと少し落ち着きが残っていれば踏みとどまって……別れるまでにもう一度、同じことを繰り返した。
 遼くんを怒らせるような。

「……らない」
「え?」
「戻らない」

 本当は分かっていたの。見てみぬ振りをしていただけなの。
 壊れかけた砂の城を、その場しのぎに修復してもいつかは壊れるだけ。

「戻れないよ。何だか分からないけど戻りたくない。今の遼くんと一緒に帰っても、帰った所で遼くんは怒った理由を教えてくれないと思う。
原因が解決してもいないのにもやもやした気持ちのまま生活するなんて嫌」

 ドアの外は静かだった。
 外を見てしまえば終わりだと分かっていた。

 目をぎゅっと瞑って足を押さえつけることでドアスコープを見るのは何とか我慢出来たけど、勝手に動き出す思考は我慢出来ない。
 多かれ少なかれ、今の発言は遼くんを傷つけただろう。
 わがままな私に呆れて、帰ってしまったのかと思い始めた頃だった。僅かに衣擦れの音が聞こえる。

「分かった、話し合おうか。その為にもドアを開けてくれないかな」
「開けたら有無を言わさず連れ戻したりしない?」

 ドアの向こうの遼くんはぷっと吹き出したように笑い、「よく気付いたね」と言う。
 悪いものがすっと抜けたかんじゃないかと思うほどに、口調は柔らかくて優しかった。

「せめて顔だけでも見たいんだ」

 そんな懇願する風に言われたら拒否する方が難しい。
 立ち上がってアームロックをかけると、腕一本がようやく通る分の隙間から黒いコートを着た姿が見える。

 実際は数時間でも……気のせいかな、何だかとても長い間、遼くんに会っていなかった気がする。
 遼くんの腕が窮屈そうに伸びてきて、迷うように上下に彷徨う。暫くすると私の頬に落ち着いた。

「コートをかけてあげたかったのに、これじゃあ腕しか届かないね。残念」
「……あ」

 今気づいた。確かに寒いかも。
 ドアの前から離れてハンガーにかかっていたダッフルコートを羽織る。
 ついでに靴下のままだったから靴も履いて向き直ると、私を見つめていた思いがけない視線の強さに少し緊張した。

 視線が合えば遼くんはふっと目元を緩めさせて。

「クリスマスの時はごめん」

 一ヶ月近く前のクリスマスイブ、書斎に引きこもって出てこない遼くんをドアの前で座りながら待ち続けたことを思い出す。
 待ち疲れて眠ってしまった私を自室のベッドまで運んでくれたのは遼くんだった。でもあれは。

「何で今更そんなこと。……それにちゃんと謝ってくれたよね?」
「うん、でも改めて謝りたくなったんだ。我慢して待っていてくれたのに、今の僕はすぐに音を上げた。
開かない扉の前にいるのがどんなに辛いかよく分かったよ」

 辛くないとは言えない、でも肯定すればこのドアを完全に開けることになる――。
 何も返事出来ない私を目を眇めて見つめ、それからすぐに遼くんは分かったみたいだった。
 頬を小さく掻いてもう一度ごめんと繰り返してくれる。

「……また困らせたね。最近いつもそんな顔をさせてるような気がする」
「そんなことないよ」
「あるよ。夫の僕が言うんだから間違いない。ほら笑って」

 私は一人っ子だから分かんないけど、兄弟って考えることまで似てくるのかな。
 唇の端を遼くんの指で押し上げられるまでもなく、自然に笑っていると、遼くんは面白くなさそうに指を離した。そんなことをされちゃ私だって気分が悪くなる。

 ……だって笑えって言ったの遼くんじゃない。

 さっきの危うさを孕んだ様子がぱっと目に浮かんで、とっさに言いかけた言葉を飲み込んだ。
 またあんな調子になられたら困るんだもの。
 腕が下ろされていく。強く握った拳が震えているように見えた。

「今の状態は、怒ってるんじゃなくて焦ってると言うんだ。君が僕の腕からすり抜けて行きそうになる事実にみっともなくうろたえてる。
――合鍵の場所なんか教えなければ良かったって今も後悔してるんだ。実家に戻られれば僕は手出し出来ない」

 遼くんはもしや、何か重大な勘違いをしているのではないだろうか。

「どういうこと……?」

 示された幾つもの知らないキーワード。
 前半はともかくとして、後半はどういう意味なんだろう。
 だって遼くんが手出し出来ないなんてあるわけない。もし私の意思で実家に戻ったとしても、遼くんが望めば、不可能でない限り両親は私をホイホイ差し出してしまうはずで――。

 私の言ったことをどう受け止めたのか、遼くんは立て板に水とばかりに迷うことなく言葉を重ねていった。
 前から考えていたことなのかな、まるでその場に原稿が用意されてるみたいだ。

「初詣に行った時、旭に小言を言われたそうだね。
『結婚後の晴乃は分家の子として本家に従っているだけ』だっけ? 正直言って同感だ。
責任の一端は僕にあるだろうし、こればかりは打つ手がないからどうもしなかったけど。
変わっていく晴乃を受け入れるのは我侭の代償だと思ってた。
それなのに雨の日を境にして以降、何故か今までより外に出るようになって段々元の自分を取り戻して。気が気じゃなかった」

 このまま聞いていてはいけないと警報が鳴る。
 一歩後ずさるともう遼くんの手が届かない位置になって、実家に置いたままだったパンプスを軽く蹴った。

「皮肉だね。たった一つ欲しがったものなのに、どうしてそのままでは傍に置いておけないんだろう」

 手の平を向けてストップの動作。
 再会してからあの雨の日までの自分を守るためにも、それ以上聞いてられなかった。

「ごめんなさい、話が早すぎてよく理解出来てない。……私にはまるで、遼くんが私を必要としてるように聞こえる」

 それだけじゃない。まるで好きだと、面と向かって告白されているようにも聞こえるんだ。
 それが私にとってどんなに辛いことなのか、おそらく遼くんは分かってない。
 ……夢だったら本当に良かったのに、目が覚めないのを祈って、安心して夢で喜んでいられるのに。 

「そうだよ。与えられた愛を傲慢にただ享受するのは止めにしたからね、実家に行ったと伝えられれば仕事を放り出して迎えに来る。
形振り構ってられないんだ。離れるつもりなら全力で縋りつく」

 そう言ってふっきれた笑みを見せてくる。
 無茶な結論を出した理由が思いっきり的外れだけど、一人だけすっきりするなんてずるい。

「……そんな」

 認めたくはない。でも遼くんの言っている通りだと考えれば筋が通るんだ、昨日や今日の不可解な行動の意味を嫉妬だと自惚れるのなら。

 真剣な眼差し。
 広い肩と頭を撫でてくれた大きな手のひら。

 思わず涙がにじんでくるほど、この人が好きだった。

「愛してると言えば信じてもらえる? 同じ言葉を返してくれる? 僕にとって今の晴乃は、遠縁の小さな女の子でも妹みたいな存在でもない」

 私ははあっとわざとらしくため息をついて、それからドアのアームロックに手をかけた。

「あのね、一つ勘違いしてるよ。すっごく大きな勘違い」

 遼くんは剣呑な目で私を見た。

「何。まさか僕の気持ちそのもの否定しないよね」
「たらこスパゲッティー作ってって言ったの、遼くんだよね」

 あ、と間の抜けた声からすると、頭からはすっかりその一件が抜けていたらしい。

 ちょうどドアが閉まってバレなくなったのを良いことにくすくす笑い、顔の筋肉を引き締めて鍵を開けドアノブを握り――。
 自分が出て行こうか、それとも家の中に招こうか迷う前に抱きしめられた。肩に頭を埋め、腰の辺りに腕を回してぎゅーっと強く。

「私がここに来たのは料理を作るため。遼くんの帰宅時間に合わせて持ち帰るつもりだったし、今も遼くんが怒ってさえなければすぐにこの扉を開けてた。
離れるつもりだった訳じゃないの」

 中途半端に開けられたドアが遼くんの背中で引っかかってる。
 外から流れ込んできた冷気に眉をひそめ、ふと横を見れば作りつけの全身鏡に私と遼くんの姿が映っていた。

「それから、信じるか信じないかの件だけど――もちろん信じるよ」

 嘘でも構わないって思っていたくらいだもの。


「でももう、愛の言葉は受け取れない。
私は遼くんが本当に幸せになれる人と結ばれれば良いと思ってる」


 手を伸ばせるはずがないよ。
 ……目の前に迫りつつあることが、今以上に辛くなると分かっているのに。


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