この心一つで
もやもやした気持ちを抱え込んだまま夜が明けて。
翌朝、革靴を履いた遼くんは「そうだ」と思い出したように言って私と目を合わせた。
とっさに昨日怒られたことを思い出してどぎまぎする。
逸らそうとしたってもう遅い、よね。
「父さんが晴乃に会いたいと言っているけど、晴乃はどうしたい?」
鞄を持つ手からふっと力が抜けた。重みに負けて指先へずり落ちかけた鞄を遼くんがとっさに掴み、「大丈夫?」と声をかけてくれる。
一応頭を振っておいたけれど、全然大丈夫じゃなかった。
心配させたくないから言わないだけで。
――晴乃さまには旦那さまの居場所をお伝えしてはいけない、と。
帰ってきた雨の日、一人残ってくれていた友美さんから伝えられたお義父さまからの命令。
今呼び出されるということは、十日後の六条家総会についての打ち合わせだろうな。
……もう、安沢家から内々にリコールが入っているのかもしれない。
俯き、胸の痛みを押し隠すためにぎゅっと服の袖を握り締める。
遼くんは会社に行くんだからいつまでも引き止めていてはいけないのに、何か言わなくてはならないのに。
「もちろん、会わないでずっと家にいてくれても構わないよ」
「いいえ!」
また後押しされないと動けなかった。頬を軽く叩いて遼くんを見上げ、出来る限り微笑んで答える。
「行きます。暫くお会いしていないのは遼くんもでしょう? 旭くん含め、みんな元気だって伝えてくるね」
「そうしてくれると助かる。日にちは追って連絡するよ。……それから」
宙を迷い彷徨った視線はやがて私へと戻ってきて。遼くんの手の平が添えられて頬から熱が伝わってきたかと思えば、今度はこつんと額がぶつかった。
内緒話をするみたいに小さな声で言われる。
「今日は早めに帰ってくるから、晴乃の都合さえ良ければ玄関まで出迎えて」
やっぱり、私が気がつかないように遠まわしに言ってくれる遼くんは優しい。
だってこれって、突き詰めればバイトをそこそこにして早めに帰って来いってことでしょう?
「そうする。夕食のリクエストは?」
伝えておくよ――という言葉は省略して。
スローモーションで再生するみたいに時間をかけて額が離されていく。
完全に離れるのを待って訊くと、ふとした瞬間に口元に浮かべていた笑みが引き締められ、仕事をしている時に似た真剣な表情へと変わった。
「何でも良いのかな」
「え? た、多分」
百戦錬磨のお手伝いさん方に出来ないことはないと思う、でもそんなこと言われると不安になるよ。
肩越しに振り返っても誰とも目が合わず、みんな忙しいのか慌しく移動していた。
友美さんがシーツが山と盛られたかごを抱えている。
……あれは、普通のお家にお嫁に行っていれば私がするべきだった仕事。
気付かれないようにそっと目を細めた。
「それじゃあ、晴乃が作ったたらこスパゲッティ。青じそときざみのりが入っているやつ」
聞こえてきたそれは、私が昨日早苗に作ったのと全く同じメニュー。
「っ、早苗……?」
確認したい、でも確認したくない。酷くゆっくりと視線を移動させた先にいる遼くんは楽しそうに笑っていて、変化の理由は私の言動だと感付いた。
スーツの胸ポケットから携帯を取り出し、少し弄って私に見せてくれる。
画像付きで、良いでしょう美味しそうでしょうと自慢するメールだった。
送信者には早苗の名前。
「この前、個人的に話す機会があってさ。本人がいないところで申し訳ないんだけど、晴乃がいなくなった時のために連絡先の交換をしたんだ。そうしたら連日メールが来るようになって」
だから、早苗があんな執拗なまでに写真を撮っていた。
口に指一本分の隙間を空けて、呆然としている私に遼くんは追い討ちをかける。
ピクチャフォルダを開き次々に画像を見せてくれ、保存されたその最後はチキンサラダとじゃがいもの冷製スープで終わっている。
これもあの雨の日を思い出させるもの。
遼くんが私を待ってくれていた間、私は早苗の家でのうのうと暮らしていた――。
自己嫌悪と申し訳なさに、まともに遼くんの顔を見られなくなる。
「作るのを止めている身でわがままかなと思ったよ、でもこんなに自慢されちゃあね。彼女が食べていて僕が食べられないのは我慢ならない」
「ごめんなさい」
もしかしなくても恨まれてる、んだろうな。
帰ってきてから普通に振舞ってくれてはいたけど、昨日は好きなようにして良いと言ってはくれたけれど、それは決して一度裏切った私を許してくれている訳じゃなく。
……自分勝手な行動にイライラされるのは、当然。
遼くんは無言で目を眇めるとパチンと音を立てて携帯を閉じ、踵を返して玄関のドアノブを握った。
まるで構っていられないと突き放すみたいに。
「残念ながら聞きたいのは謝罪の言葉じゃないんだ。行って来る」
謝罪は態度で示せ、ってこと?
「……行ってらっしゃい」
体を縫い付けられたように足が動かなく背中を追うことも出来ず、ただドアを開けて見送るだけ。
門までの石が敷かれた道を過ぎ、振り返らない姿を見つめて。
次に気付いたのは内側から友美さんに声をかけられた時だった。
頭を切り替えよう。
とりあえず、今出来るのは遼くんのために美味しくて温かい夕ご飯を作ることだよね。
お手伝いさんに食材の有無を聞いて午後からの買い物を新たに組み入れ、私は部屋の片付けを再開させた。
◇
部屋を片付けて買い物に行って必要なものを買い足して、それから帰宅。
実を言えば足りない食材はほとんどなかったから都合が良かったんだけど、試作品を作り始めた段階で失敗したと気付いた。
何かって、最新の調度品と食材を上手く使いこなせない。
仕方ないことだ、と慰めたくなる自分がいて嫌になる。
最後にここを使わせてもらえたのは去年のクリスマスで、それもケーキに生クリームをデコレーションするお手伝い程度だった。
更にその前は、いつになるだろう。
婚約時代に一・二回使ったかな。
元々あった食材は最高級品。
なのに普段早苗の家で作っている以下の味に思えるなんて――お手伝いさん達にもう二度と料理をしないで下さいと泣きつかれそう。
私の舌が庶民なのだとしたって身分の差を感じるよ。
隅に設置された食洗機は使い方がさっぱり分からなかったためアナログな方法を取った。
洗い物を終え、銀色に磨かれたシンクについた水滴を拭いていると何となく見られている感じがして。
振り返るとキッチンと廊下の境目に友美さんが立っていた。
中身がすっぽりと隠れるような大きめのトートバッグを片手に持って、更にはコートを着た私服。
どこかに出かけるんだろうか。
「晴乃さま、買い物から帰ってらっしゃってたんですね。予行練習ですか?」
「……失敗しちゃったんだけどね」
視界の端に映ったそれらから目を伏せた。
遼くんの好物を並べようとして、それで失敗していては本末転倒だっていうのに。
余計なことをするなと神様から釘をさされたのかもしれない。
言われたスパゲッティだけ作って、後はお手伝いさん達にお願いすれば良かったのかもしれない。
私の希望は通らないけど、そうすれば食材は無駄にならなかったよね。
友美さんは周りを、多分他のお手伝いさんがいないかどうかを確認してキッチンに入ってくる。
巻いていたマフラーと手袋を迷いなく外してテーブルに置いた。
「いえっ、旦那さまのために行動なさることがまずとても素晴らしいことですわ! それでこちらが?」
目をキラキラさせて聞いてくる姿には苦笑を禁じえなくて。
シンクを拭くのを建前にして、友美さんに見えない角度で小さく笑った。
「ええ」
「私の目には美味しそうに見えますが、晴乃さまのお気に召すお味ではありませんでしたのね? 差し支えなければ、あの、ちょっとだけ頂いても」
失敗したからって食べられない訳じゃない。
残った分は冷蔵庫に入れて遼くんに気付かれないようこっそり明日の朝食にしようと思っていたけど、申し出を断る理由はない、はず。
「もちろんどうぞ。でもそこまで美味しくないと思うよ?」
微笑んで肩を竦められた。
「残念ながら、晴乃さまが謙遜して仰る以上には美味しいことを確信しておりますの。ありがとうございます、遠慮なく頂きますね」
嫉妬したくなるくらい手馴れた動きで箸とスプーンと小皿を取り出し、少量ずつ、それでいて手際良く私が作ったおかずを口にしていく。
友美さんの性格と立場上、厳しい意見は言ってくれないだろうけど……何だか小学生に戻ったみたい。
出来上がった作文を先生に添削されている時もこういう気分になったっけ。
一通り味見し終えると、友美さんは思案するように口元へ片手を添えながら、
「やはり、仰られるようなお味ではないと思いますよ? 熱伝導率が良すぎたのでしょうか、普段お使いのものと違う器具を使ったなら仕方ないことです」とフォローしてくれた。
熱伝導率か。確かに、普通より遥かに良い器具だなと思って使ってた。
「そう。……やっぱりそうなんだ」
大理石のカウンターも濡れ拭きと乾拭きをセットにして簡単に拭いておく。
器具は元の場所に戻してあるし、お願いして使わせてもらう前と全く同じ状態にまで戻した。
聞いてみると友美さんが味見に使った箸とかはそのままで良いって言ってくれたから、じゃあ後すべきことは――。
ラップを被せた料理を冷蔵庫の中に入れ、キッチンを出て行こうとすると、友美さんがぼそりと低い声で喋った。
「また――」
視線が向けられるのと同時に、次の句を紡ごうと動きかけた唇はゆるゆると閉じられて。
これって聞き返した方が良いのかな、でも単に私に聞かれたくなかったのかもしれないし。
考えている間に友美さんは美しく口の端を吊り上げた。
水滴一つないシンクの縁を人差し指ですっと撫でる。
「いえ、晴乃さまのお使いになった後のキッチンは綺麗だなぁと。まるで使った痕跡を消しているようですね」
……うわ、図星。
勘の良い友美さんを欺くべく出来るだけびっくりした表情を出さないようにして、私は小首を傾げる程度に頭を下げた。
「ありがとう。私、ちょっと出かけてくるね」
今度驚くのは友美さんの番だった。
大きく目を見開いた後、どうしてですか、と不満交じりに口を尖らせながら問いかけてくる。
「あと一時間半もすれば旦那さまが帰っていらっしゃいますよ?」
「それまでには帰るから」
意思が翻ることのないように、間髪入れずに言い返した。
電車で数駅なら一時間半で帰って来れない距離ではないと思う。
結婚して以来一度も、本当に夏休みも新年も里帰りしたことのない親不孝な娘だけれども。
「ええと、念のために。どちらに?」
友美さんの言葉を聞いた瞬間、心のどこかで安堵した自分は遼くんのために料理を作ることを諦められないんだって分かった。
例え神様に作るなと言われたとしても私は作りたいの。美味しい料理を食べて貰いたいの。
だってどうせこれが最後になるのなら。
「実家に」
何にも考えず、遼くんを思うこの心のままに行動したい。
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