傍にいる代償
遼くんが帰ってきて、大学の冬休みが終わって。六条のお屋敷は外見だけは全てが元通りのように見えていた。
そして私といえば、早苗の家で暇潰しを兼ねたアルバイトを始めている。
くるくるとフォークを動かし、口いっぱいにたらこスパゲッティを頬張った早苗は飲み込む間もなく「んーっ」と唸った。
フォークを強く握り締めるのはオーバーに思うけど、全身で美味しいって言ってくれてるみたいで家政婦冥利に尽きるよ。
「六条さんって損してるよねえ、こんなに美味しい晴乃の手料理が食べられないなんてー」
そう言った早苗は、ケータイで写真を撮る作業と食べるのを器用に両立させている。
べた褒めしてくれているって言っても、わざわざ撮る必要もない青じそときざみのりが入ったごく普通のたらこスパゲッティ。
何かに使うわけでもないだろうに、早苗は最大限私を気遣ってくれていた。
「早苗、それは言い過ぎ」
テーブルとは少し離れたところでコートを羽織る。
早苗のマンションに着いたのが午前十時で、それからもう四時間が経つから、そろそろ家に戻らないとメイドさん達に怪しまれてしまう。
ここに来ていることは遼くん含め、皆には秘密だった。
「言い過ぎじゃない! これはお金取れるよ、下手なレストランよりずっといける」
何度かアングルを変えて撮り終え、ケータイをしまった早苗は独り占めとばかりにお皿を引き寄せて、勢い良くスパゲッティを消費しにかかっている。
既にお腹の中に消えている量が半分ほど。この細い体のどこに、って何度見てもそう思う。
簡単にマフラーを巻きつけ、廊下を進んで靴に足を滑らせる。
後ろを振り向くと、廊下とリビングを隔てるガラス張りのドア越しにスパゲッティーを食べる早苗が見えた。
「お夕飯はラップに包んで、冷蔵庫に入れておいたからね。もう行くよ?」
「了解。あー私ってば幸せー」
……もう、早苗ったら。
「それじゃあ、またね」
掃除機かけて、お料理作って。仕事してる早苗の面倒を見たり、新聞のチラシをチェックして近所のスーパーに買い物に行ったり。
ここのマンションにいる私の方が、よっぽどお嫁さんみたいなことしてる。ちらっと浮かんだ考えを無視して、私は早苗の家の鍵を閉めた。
遼くんは今週も休日出勤だった。
ただこの前の件のせいなのか、午後七時ちょうどにはご飯を食べに家に戻ってきている。
会社にとんぼ返りしちゃう時もあれば旭くんを呼んで仕事部屋に引きこもることもあって、私としてはそのまま会社にいた方が効率が良いんじゃないかと思うくらい。
……ほんと、気を遣わなくて良いのに。
チャイムの音につられて玄関まで迎えに行き、ドアを開けると今日は旭くんと秘書さんまで一緒に来ていた。
スーツ姿の不機嫌そうな遼くんが正面に、その背後では上下びしっと決めた秘書さんが申し訳なさそうに私を見ていて、赤いトレーナーにジーンズを合わせた格好の旭くんが満面の笑みで横に並ぶ。表情も何だか三人三様だった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
遼くんは僅かに頬を緩めると、私の方に鞄を持ってない手を伸ばそうとして、
「ただいま。なあ晴乃、俺の分も夕食あるー?」
斜め後ろの旭くんをギロッと睨んだ。
……何をしたかったのか分からないけど、気まずい。
秘書さんに目でヘルプを求めてみても無理そうで、私はキッチンの方を向くとわざと明るい声を出した。
いつ来客があっても対応できるように、土日は日持ちして人数の調節が出来そうなものをお願いしている。確かビーフシチューだっけ。
「多分あると思うよ。今日は泊まって行くの?」
「そうしよっかな。たまにはコイツにも酒飲ませてあげねーと」
コイツ、と言って旭くんは秘書さんの肩を小突いた。
いつもは秘書さんが車を運転して送り迎えしているから、旭くんがお酒を飲むのを見ても自分は飲めない状態だった。遼くんはそもそもお酒をあまり飲まなかったりする。
「そうだね。あ、瞳さんが好きそうな赤ワインがあるよ」
中に入ってもらうようドアの前から退くと、旭くんが目を丸くさせて秘書さんを見ていた。
「白石が好きそうな? めっずらし、そんな話したんだ?」
白石?
何かが引っかかったような気がする、でもその『何か』が分からなくて。私は深く考えるのを止めて後ろの二人に視線を向けた。
「違うの。赤いワインが似合うだろうな、好きそうだなぁって思っただけ。……ぁ」
自分で鞄を持った遼くんが、無表情で私の横をすり抜けていく。それでもお客様の相手は私がしなきゃいけなくて、後を追うことは許されなかった。
「良いのですわ、晴乃さま。お気になさらなくても」
それは遼くんのこと?
それともワインのこと?
黒いハイヒールを履いていた秘書さんはしゃがみ込んで、旭くんが脱ぎ捨てた靴まできちんと揃えていた。顔を上げて薄っすらと微笑む。
「赤ワインが好きなのは本当ですもの。六条で出されるワインは高級そうですし、有難く遠慮せずに頂きます」
どっちにしたって、よく出来た人だと思う。
旭くんと秘書さんをリビングに通すと、いつの間にか普段着へと着替えていた遼くんに腕を引っ張られた。本物だよね、と胡乱な目を向けずに済んだのはそれからすぐに声を聞けたから。
「晴乃、ちょっと」
「うん?」
実は病院から帰ってきて以来、二人きりになるのは初めてで。緊張を隠せなかった私とは裏腹に、遼くんは慣れた様子で私を連れ中央の階段を上がっていく。
他の人たちは一階にいるから、明かりがついているだけの二階は妙にがらんとしていた。少し喋っただけでも声が響きそう。
ひと気のない廊下の端で止まると、引っ張られたままだった腕がゆっくりと離される。
「どうしたの? 毎日決まった時間に家を抜け出ているってメイドから聞いたけど」
……だから、不機嫌そうだったのかな。
「バイトみたいなもの、かな」
早苗の名前を出さずに、曖昧にぼかして言うと不可解そうに遼くんの眉が吊り上がった。
言いたいことは何となく分かる、お飾りでも妻だったら外に出ないで家を守れ。
――遼くんは優しいから、それを直接口に出して言わないだけで。
「何で。僕の稼ぎだけじゃ足りない? お小遣いが欲しいなら言えば良いのに」
ほら、やっぱり。
「違うの、ただ頼まれたから」
「じゃあ頼めば辞めてくれるの」
「そんな」
真剣な、厳しい声に心よりもまず身体がびくっと反応する。
――遼くんはそれに気付いたのか、ハッとしたように大きく目を見開くと私の肩を引き寄せて、唇の端に軽くキスを落とした。
「ごめん、言い過ぎた。僕がこの家にいない間は好きなように過ごせば良いよ。バイトはほどほどに、生活に支障が出ないようにして」
……何も言えなかった。謝らなきゃいけないのは、私の方だったのに。
この家にいられる間、私の中で決めたことが三つある。
一つ、見返りを求めないこと。
二つ、遼くんの行動に口出ししないこと。逆らわないこと。
三つ、身元が確かで金勘定がしっかりしていて信用出来る、最初に望まれた『香坂晴乃』でいること。
それが、傍にいることの代償だった。
部屋で少し休むという遼くんを残して一階に下りると、秘書さんが近付いてきて優しく手招きし、私の耳に真っ赤に塗られた唇を寄せた。
『六条さんを奪ってみせる』と宣言していた御堂あおいさんも同じ色だけど、先入観のせいか全然厭らしく見えない。白檀かな、何となく良い香りまでする。
「女なら可愛いものですが、男の嫉妬は見苦しいですわね」
それってまさか。
体を離して秘書さんを見れば「その通りです」と言わんばかりに微笑まれた。
私と遼くんが話していたのは二階の廊下で、階段を上った時はまだ秘書さんは一階にいるはず。
じゃあどこにいれば盗み聞き出来るのかと考えると……あった、階段の中ほど。
廊下の端にいるとちょうど死角になるんだよね。
「瞳さん、いらっしゃったんですか」
「ふふ。ゴシップ大好きなんです、私。それよりもあの発言は頂けませんわ!」
胸の下で腕を組み、二階の遼くんの自室がある方を睨みつけ分かりやすく頬を膨らませて。
でも秘書さんが怒るような要素、あの会話の中にあったっけ……?
「遼くんはただ、次期当主の妻がバイトなんてみっともないって言ってるだけに思えましたけど」
「分かってらっしゃらないならば、それもまた一興です」
どうしても考えを譲る気はないみたいだった。
メイドさん達が料理を運んでくれるのを横目に見つつ、ソファに座るよう勧める。
そういえば旭くんはどこに行っちゃったんだろう、さっきまで冷蔵庫のチーズを摘んだりしていたのに。
向かい合わせに座ると、秘書さんは「それにですね」と私の注意を引くように潜めた声で続けて。
「気にすることはありません。遼さまは仕事の関係でイライラなさってるのですから、晴乃さまはどーんと構えてらっしゃれば宜しいのです」
「遼くん、そんなに忙しいの?」
「ええまあ。春からの人事異動で、ってこれは晴乃さまには秘密でしたね」
艶やかに微笑み、唇の前に人差し指を一本立てるのがすごく似合う。もし私が男だったらコロッと騙されちゃう……でも、話の内容が遼くんに関することだから簡単には騙されない。
今、口が滑った振りをしてとても重要なヒントを残してくれたような気がする。
美しい女の仕草から一転、きりっと顔つきを引き締めた秘書さんは鞄から白い封筒を取り出し、中身を見せてくれた。
これは、あの時の。
「実は、幾つかの出版社に六条家のネタが……面白おかしく脚色されて、送られたそうなんです。この写真に心当たりはお有りですか?」
早苗のマンションから家に戻って来る、あの雨の日に撮られたものだった。
傘を差した私の顔が見えそうで見えなくて、でも知っている人なら格好や背景に映った垣根を見てすぐに誰だか推測出来る。
他にも、家の前で遼くんが一人傘を差して立っている写真。
私と旭くんが並んで歩いている写真。
これはおそらく初詣の時だと思う。
「もちろんこの程度では相手方も記事になんて出来ません。ただどこから話が漏れるか分かりませんから、遼さま、今日はずっと関係者に口止めするので忙しかったんです。ご察し下さいませ」
「……私、やっぱりバイト辞めた方が良いのかも」
「いいえ」
強く否定し、私の両手を秘書さんのそれで包み込む。
「晴乃さまはご自分が正しいと思われる道を貫くべきです。ご夫君に言われたからと簡単に捻じ曲げてはいけません」
……じゃあ正しいと思える道がなかったら、私はどうすれば良いの。
自分一人で答えを作り出すのは無理そうで、用意されたのはどれも少しずつ合っていて、どれも少しずつ間違っている道。もしそうだったら。
瞬く間に駆け巡った反論は、秘書さんにそのままぶつけても返答に困るようなものばかりで。
「遼さまだって人間です。あの方が間違った道を行かれた時、晴乃さま以外の誰が遼さまを引き戻せると言うのです。少なくとも私では無理ですわ」
「ありがとう」
笑ってそう告げるのが、私の精一杯だった。
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