一人きりの告白
欲張りな私に、天罰が下ったんだ。
リノリウムの廊下に足音が響く。
ナースステーションの明りはとっくに見えなくなっていて、非常口を示す看板が緑色に光るだけ。
どうにか暗さに順応してきた目は部屋の番号をとらえているけど、プレートの間隔がありすぎて不安になる。
多分、一つ一つの部屋が大きいんだと思う。
私は壁に手を当てて端の部屋を目指しながら、昔のことを思い出していた。
「八歳くらいの時かな……」
熱を出した彼の所に押しかけて、無理やり看病させて貰ったんだよね。
氷枕に失敗して台所をびしょびしょにしたり、知ってる限りの曲を彼の枕元で歌ったり。
たまたま一緒にいた旭くんには大迷惑だっただろうな。
それでも、黙って片付けを一緒にやってくれたっけ。
305、306。
307のプレートを見つけた頃、暗闇の中にぼんやりと白いスニーカーが浮かび上がって見えた。
誰かが長椅子に横たわって、足だけ床につけてるんだ。時々スニーカーの位置が動いているから、寝てはいないみたい。
「旭くん」
真横に立って呼びかける。
旭くんは目を薄っすらと開け、彼と瓜二つの顔で微笑んだ。
「晴乃? 安沢から聞いてたけど、本当に来たんだ」
「うん。……お義父さまとお義母さま、は」
見回してみても、廊下に出ているのは旭くんだけだ。
部屋の中にいるのかなと思ったら、「いや」と言って肩を竦める。
話を聞くと、旭くんもつい一時間ほど前に病院に着いたばかりみたいで。
「元々忙しい人達だからね。母さんはさっきまで来てたらしいけど、父さんは電話一本よこしただけだって。大丈夫だって言ったらすぐ切ったみたいだし」
「そっか」
――晴乃には、遼の居場所を伝えてはならない。
友美さんに出された命令を思い出して胸がぎゅっと苦しくなった。
いくら私が彼の奥さんでも、今は公式に会える立場じゃないんだ。
そう思うと辛くなって、掴んだ服の裾に力が入る。
「ひでぇ親なのは昔からだよ。――あ、入るよな? 邪魔してゴメン」
「ありがとう。……それじゃあ」
「晴乃」
長椅子の前を通り過ぎ、扉に手をかけた私を呼びとめる。あまりにも旭くんの声が似ているから、一瞬ドキッとした。
急上昇している私の心拍音なんて知らずに、旭くんは椅子から立ち上がると大きな手の平で私の頬を包んだ。
そのまま、ぎゅむっと掴んで横に引っ張る。ちゃんと力加減はしているようで、鈍い痛みがじんわり伝わってくるだけ。
我慢出来なくはない、けど――。
「そんな思いつめた顔で遼に会うな。笑え?」
私、旭くんに心配されてしまうほど悲愴な表情をしてたのかな。
出来る限り笑ってみると旭くんは満足げに微笑んで、病室に続く扉を開けてくれた。
◇
外から差し込む月明かりのおかげで、病室はそれほど暗くなかった。
部屋の端には仮眠用の簡易ベッド。黒いスツールが二つ、ちょこんと並んで置かれている。
部屋は広いけれど、物が少ないせいでがらんとしているように思えた。
ベッド脇のテーブルにはスポーツ飲料のペットボトルと、缶切りでふたを開けただけの桃缶。
……この大雑把さは小母さまだろうな、多分。どちらも手が付けられてないみたいだし。
私は音を立てないようスツールに腰掛け、眠る彼を見下ろした。
最初は、欲しいのは一つだけだった。
どんな形でも彼の傍にいられれば良くて、それだけで満足してた。寝起きの彼を見れることが嬉しくて、妻としての特権は自分だけにあるんだ、そう思えるのが幸せで。
時間が経つごとに欲しいものがどんどん増えていって、ワガママを許されて。
最初の一つだけを、忘れてたんだ。
「ただいま」
帰る場所はもう間違えない。迷ったりしない。
気づくのが遅すぎるって、遼くんなら責めても良いよ。思う存分怒ってよ。『おかえり』って笑ってくれたら、それ以上何も求めないから。
「ただいま、遼くん」
何も願わないから、どうか。早く良くなって下さい。いつも通りの笑顔を見せて下さい。
「――すき、です」
あなたを好きでいさせて下さい。
妻でいられる、最後の時まで。
何度も『ごめんなさい』を繰り返して、夢と現実の区別がつかなくなった頃。
カチカチと針が時を刻む音に紛れて、病室の扉がゆっくりと開いていった。
「何でさあ、お互いそこまで入れ込めるんだか。俺には全ッ然分かんねー」
はあっと大きくため息をついて、呆れたように呟く声はやっぱり遼くんに似ている。
月明かりが浮かび上がらせたその人の影は、両手で持った何かをベッドに伏せる私の背中にかけた。
「どーしてまた茨の道を突き進むかなぁ。遼と一緒じゃ苦労すんの目に見えてんのに」
ブランケットかコートかな。肩から背中にかけての重みが温かくて、今が一月だってことを鈍く痛みを訴える頭が思い出した。
「……これから、どうしようか」
ぽつり、そう聞こえてきたのは夢だったのか……私にも、よく分からない。
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