帰る場所
私、何をやっていたんだろう。
どうして後先考えず行動しちゃうんだろう。
私が話を盗み聞きしていたんだって、この状況なら誰だってすぐに思いつくよね。
……それで彼がどう考えてどう行動するか、知っていたはずなのに。
気ばかりが急いて、帰りの電車はひどくゆっくり動いているようにしか感じられなかった。
運転手さんに頼んで車出して貰えば良かったかな、と甘えた自分が顔を出す。
でも迎えが来る時間が惜しいし、それに自分の足で家に戻ってきたかった。
……車の中でも早く早くと思うくらいなら、駅に着いた瞬間走り出した方がよっぽど良い。
それでも体力があるわけじゃないから、途中途中で立ち止まって、また走ってを繰り返す。
片手を塞ぐ傘が邪魔だった。
びしょ濡れでも全然構わなくて、大事なのはただ家に帰ることだけで。
――ごめんなさい。そう、彼に伝えなきゃ。
家のあたたかな明かりはついているのに、住宅街の道路には誰も歩いていない。
普段のざわめきは、子供たちの笑い声は嘘かと思うほど静まり返り、時々、遠くから車の音が聞こえてくる程度。
もし彼のことばかり考えていなければ、お化けが出てきそうで怖いと思うんだろうな。
それくらい静か。
玄関まではあと少しだった。数メートル先からはずっと垣根が続いていて、次の角を曲がるとすぐに玄関がある。
息は上がりきり、運動不足のせいで横腹は痛くなっていたけど気にせずに走った。
ばしゃばしゃと派手に水たまりを踏み、角を曲がろうと……した、その時。
眩しい光。
ううん、これは――フラッシュ?
「え?」
光が目に入ったのは一瞬で、立ち止まって周りを見ても何の音沙汰もなく。
再び静寂に包まれた住宅街、オレンジ色の街灯。
さっきのカメラらしき光以外はおかしい所一つなくて、私は言い聞かせるように呟いた。
「……気のせいだよね」
多分、誰かが写真を撮ったんだろう。
柔らかく街灯に照らし出された雨は幻想的だし、何より自分を撮られたと思い込むなんて自意識過剰すぎだよ、私。
特に美人な顔でもないんだから、私を撮ったって何の得にもならない。
それより、早く家に入ろう。
もう目と鼻の先なんだから。
頭を軽く振って考えを振り払い、走って門をくぐる。気のせいだと分かっていても何だか気味が悪かった。
門に設置された監視カメラのおかげか、玄関の扉には鍵がかかっていなかった。
すんなり開いた扉から身を滑り込ませると、既に友美さんが出迎えてくれていて。
寝不足なのかな、眼の下が赤く腫れてる。
……お屋敷のみんなを巻き込んじゃったんだ。本当に今更で、虫の良い話だけどそう思う。
「ただいま」
引きつりそうになりながらもどうにか笑顔を作って話しかけると、友美さんは頭を下げて出迎えてくれた。
でも、どうして友美さん一人なんだろう?
手の空いている人は全員来るのが習慣だったから、どうしても違和感を覚える。
それに、人の気配もしない。
今くらいの時間だったら、まだお仕事をしているはずで。
「お帰りなさいませ、晴乃さま」
「ただいま友美さん。……遼くんは? それに、みんなも」
三日前に家を出て行った時と同じ、黄色いミニトランクを脇に置きながら尋ねる。
あれ、もしかして今日ってお休みの日だったっけ。
友美さんだけ残ってるのは不思議としか言えないけど、彼がお願いしたのかも。それとも旭くんが手配してくれたのかな。
『旦那さまが高熱を出したんです。ここ数日ずっと、雨の中晴乃さまを待ってらっしゃって……!』
電話がかかってきた時、どうして、という思いが強かった。
メールを出したんだから居場所は分かっていたと思うし、もう子供じゃないんだから心配しなくても良いように思える。
わざわざ彼が、しかも雨が降っているのに外で待っていた理由が分からなかった。
分からなくて分からなくて、何も言えないまま電話口で固まって。
答えを教えてくれたのは早苗だった。
『晴乃が家出した理由、分かったから外で待ってたんでしょ?』
ありえないと思いながらも、そうじゃなきゃ説明がつかなかった。
気づけばトランクを引っ掴んで早苗の家を飛び出し、今に至る……んだけど。
友美さんは言い難そうに口ごもってから、私の目をまっすぐに見つめて言う。
「このお屋敷に残ったのは私だけです。皆に暫くのお暇を出された後、旦那さまは……」
どうして、最後まで言ってくれないの。
「ここにはいない、の?」
誰かにギュッと掴まれているように、胸が苦しくなる。呼吸が速くなる。喉が急にからからになって、掠れた声が耳に届いた。
自分でも分かる。今の私、涙目だ。
「長時間雨に打たれたせいで、危うく肺炎を起こしかけたんですわ。今は病院にいらっしゃいます」
「病院って、まさか」
嫌な予感が頭を駆け巡って、何度打ち消そうとしても消えてくれない。救急車、点滴、規則正しい心音――。
入院。
行かなきゃ。
「晴乃さま!」
傘を掴もうとした手を、友美さんに強く握られる。友美さんはほつれた三つ編みを振り乱して、赤く充血した目を見開いた。
何となくだけど、友美さんの言いたいことは私にも分かる。
この時間に行ったって仕方ない?
それなら朝が来るまで、病院が開く時間になるまで中で待ってるよ。
どこの病院かも分からないのに?
それなら都内の病院に片っ端から電話をかけていくもの。
もう、ここで待ってなんかいられなかった。何か行動していないと自分が壊れてしまいそうで、悪いことを考えてしまいそうで。
「どちらに行かれるんです。病院の名前は分かるんですか?」
「じゃあどこ? 早く教えて」
「それは……」
……それは? 不自然な間が開く。迷うように口を閉ざした友美さんと反対に、私はどんどん焦ってきていて。
よく使われる表現だけど、一分一秒たりとも無駄にしたくない。
早く早く、彼のところに帰りたかった。どんなに苦しくても辛いことになっても、彼の傍にいたかった。それが、早苗のマンションにいる間に出した結論。
――でも、こんなことになるなんて。
私は友美さんの手を掴み返すと、自分から一歩近寄って視線を合わせる。
「お願い友美さん、教えて。私、行って謝らなきゃいけないの。こうなった原因は私なんだから。会って遼くんに謝りたいの」
「…………教えられません、と、申し上げましたら?」
今の、聞き間違えじゃないよね。
「え?」
知らず知らずのうちに、友美さんを追い詰めるような言い方になってたのかな。さあっと顔が青く染まって、深く頭を下げられる。
そこまでされると、何だかこっちが申し訳なく思えてきて。
「ごめんなさい。でも、何で……?」
「六条本家より、晴乃さまには旦那さまの居場所をお伝えしてはいけない、と」
私より友美さんの方が泣きそうな声だった。震える肩を抱いて慰めてあげたいけど、そうしてもいられない。すぐ動きださなきゃ。
「お義父さま、から」
結婚する前、忙しい合間を縫って挨拶の時間を下さった小父さまを思い出す。どことなく彼に似ていて優しげで、仕事には厳しい面も見せていた。
あれが自分に向けられたら、小父さまを敵にしてしまったら怖いかも。そう思ったんだっけ。
――きっと、家出なんかした馬鹿な私に彼を合わせたくないんだ。
もういいから関わるなって言ってるんだ。
彼に会いたい気持ちは変わらない。でも流石にしゅんとなって、友美さんと二人して俯いたその時だった。
パッ。
急にリビングの明かりがついて、中央の階段から誰かが下りてくる。暗さに慣れきっていた目には眩しく、『誰か』がはっきりと分かるまで少しかかった。
タイトスカート、真っ白なドレスシャツ。ハイヒールの鳴る音が似合いそうな、有能って感じの女の人。
前にも、そう、お正月を過ぎた頃に一度会ってる。
確か旭くんの秘書の方だ。秘書さんはつかつかと歩いて玄関まで来ると、綺麗に微笑んで首を傾げる。
ドラマみたいな登場の仕方と、優雅な仕草。周りを圧倒する存在感に、何でここにいるのかなんて当然思うようなことは――すっかり、忘れてしまっていた。
「お話は一部始終聞きましたわ。私なら遼さまのいらっしゃる病院、教えて差し上げることが出来ますよ?」
「教えて下さい」
返事をしたのは、ほぼ反射。
「瞳さま!」と叫ぶ友美さんの声が聞こえて、面白そうに瞳をきらめかせる秘書さんを見て、じわじわと後から実感が追い付いてくる。
この人、彼の居場所を知ってるんだ。
これで、会いに行ける。
謝れる。
「あら、私がなぜここにいるか聞かなくても宜しいんですか?」
言われて初めて、あ、って気付く。
そう言えば何でだろう。秘書さんがいるってことは旭くんもセットでいるはずなのに、二人の背景となるリビングはがらんとしていて誰もいない。
考えられるのは旭くんが「ここにいてくれ」ってお願いしたことなんだけど……伝言なら友美さんにも頼めるし。
幾ら考えても答えは出てこなかった。
ううん、それより、
「彼の傍に行きたいんです」
こっちの方が先で。
秘書さんはゆっくりと口角を持ち上げ、隣で押し黙っている友美さんに話しかける。
「友美、教えて良いわね。私には六条本家からの規制はかかってないもの」
友美さんは私と秘書さんの顔を順に見比べて、重々しくため息をつく。
それはそうだよね、だって私をここで足止めするのが友美さんの役目なんだ。
自分の口で言うのではないけれど、結果として同じになる。六条の小父さまに叱られるのは目に見えてるもの。
……それでも友美さんは、眉間に出来た皺を伸ばすように人差し指を添えて、こう言ってくれた。
「お好きになさって下さい」
ぷいとそっぽを向いてリビングの奥へと歩き出す。
私は知りませんよ聞いていませんよ、っていうポーズを取ってくれるのかな。
対照的に秘書さんは優美に微笑み、私の耳元に唇を寄せた。
「遼さまのいらっしゃる病院は……」
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