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番外編――遠い日の歌
 退屈しのぎにと弟が持ってきたボードゲームでも、母が買ってきた桃缶でもなく。
 ただ君の存在に、あの日の僕は癒されていた。

 コンコン。軽くドアを叩く。
 ピンポーン。チャイムを押す。

「ごめんくださーい、はるのですーっ!」
 しまいには大声を出して、晴乃は隣家の扉を開けてくれるよう叫んだ。

 遠縁で分家でお隣さん、名前も顔も知られているだけあり、晴乃は門の段階では顔パスだった。
 毎日のように入り浸っている、本家兄弟の遊び相手として門番にはっきりと認識されている。
 
 本来、というより昨日までは入るために、晴乃が自力でここまですることも無かった。
 大抵は門に来た時点で家へ連絡が行き、遼か旭か、もしくは六条のおばあさまと晴乃が慕う京子が誰かしら出迎えていてくれる。

 それなのに今日は、いつまで待っても扉が開かない。
「ごめんくださぁいっ、だれかいませんかー?」
 飽きもせず、五分ほどそうしていただろうか。

 ついにはピンポンを連打していると、扉が軋みながら開いた。旭が顔だけを外へ覗かせている。
「あのさぁ。……まあいいや、上がって」
「? うん」
 苦情めいたものを旭は言いかけたが、寸前でそれを止める。

 この幼馴染みに余計なことを言ったらどう遼に怒られるか分からない。
 触らぬ神に祟りなしだ。

 靴を脱ぎ、勝手知ったる他人の家を晴乃はどんどん進んでいく。
 左へ、左へ、次はまっすぐ。

 旭がお茶を汲みに行ったため、今は一人だった。
 そういえば今日はメイドさん達のお休みの日だったな、と晴乃は思い出す。

(六条のおかあさまとおばあさまは、どうしたんだろう)

 家の中は予想以上に、というよりいつもより静かだった。
 普段から生活臭の無いモデルルームめいた所があるが、今日はそれに輪をかけている。なんせ人の声がしない。

 もしや二人とも外出中だろうか。
 遼くんは部屋に一人でいても不思議じゃないし、などと晴乃が考えているといつのまにか部屋の前に着いた。

「りょうくーん、入るよー」
 中からの返事はなかった。
 しつこくもう一度同じ言葉を繰り返すと、返事は後ろから。旭だった。
「入って良いよ。……遼は今、返事が出来ないから」
「え、出来ないって?」

 晴乃が不思議そうに首を傾げているうちに、片手で盆を持つ旭は器用に肘で扉を開ける。
 中はしんとしていた。
 部屋の中へ一歩入ると、死角になっていた場所が晴乃にも見えるようになる。

 遼は自室のベッドの上に横たわっていた。

 苦しげに息を吐き出して。とっくに温くなっていたタオルは額の上からずれている。
 ストローが入ったグラス。中に注がれていたのであろう、スポーツドリンクのペットボトルがベッドの下近くに置かれていた。

 紅に染められ、上気した頬。
 八歳の晴乃にも分かる、熱だ。
「一人は急ぎの用事、もう一人は慌てて買い物。今、この屋敷にいるのは晴乃と俺と遼だけ。……分かった? だから今日は帰りなよ」
「やだ」

 幼げな声音で言い張って、晴乃は大きく頭を振った。きゅっとベッドのシーツを掴み、旭を見上げる。
「りょうくんの看病、私がするの」
 その強情にはもう何も言いたくなかった、と後の旭は語る。



 歌が聞こえる。拙い声音……あぁ、晴乃か。
 一つの歌を二度繰り返すことなく、とめどなく変わっていく。

 『これはこの世の』――こら、それは病人に歌う曲じゃないよ。僕を死なす気?

 『いまこそ別れめ』――何でそんなの、覚えてるの。僕がこの前歌っていたから、覚えさせてしまったのかな。

 『今は、もう動かない』――ようやくまともになった。それもあんまり、今歌うべき曲じゃないけど。

 彼女の選曲が面白くておかしくて、随分と狸寝入りを続けていたようにも思えるけれど。
 それは彼女が某動物を踏んづけた歌を歌い始めたところで終わってしまった。

 思わず笑みを浮かべたのがバレたんだ。
「あっ。りょうくん起きたー」
 に、とくったくなく笑うどんぐりまなこが、まず視界に入ってきた。

 彼女は僕のベッドの隅に両手を重ねて、その上に顎を乗せている。横を向いて寝ている僕と、ちょうど視線が合う位置だ。
「旭くん旭くんっ、りょうくん起きたよー!」

 声はとたんに大きくなる。少し視線をずらすと弟が、旭が僕のベッドを背凭れにして座っていた。
 読みかけだっただろう本を脇において、膝立ちでにじり寄る。

「気分はどう?」
「それなり」
「この子、どうにかした方が良い?」
 これ、と晴乃を指差す。示された本人はぷくっと片頬を膨らませて口を尖らせて、全身で不満を表現していた。

「どうにかって、ひどい」
「晴乃もさ、そろそろ三時間くらい経ってるじゃん。歌のレパートリー無くなったよね?」
 時計を見ると午後五時。日も暮れ始めている。

 旭に言われて初めて、僕は彼女の声が少し枯れていることに気付く。
 それはどこか面白くないけど、それ以上に彼女に対して申し訳なかった。

 そんなにずっと、僕のためだけに?

「ま、まだあるもん」
 彼女は明らかに視線を彷徨わせ、どもりながらも言い張る。
 あくまでも発言を撤回する気はないようで、旭はもう諦めの目でそれを見ていた。
 ふ、と息を吐くと彼女の唇に指を当てて。強制的に黙らせる。

「じゃあ、最後に一曲だけ歌って。僕はもう一度寝るから、良い夢を見られるように」
 ……あま、と旭が呟いて視線をそらした。
 対する彼女は元気よく頷いて、楽しげに歌う曲を決めている。

 ベッドから身を乗り出すと、彼女の足元には歌集が散らばっていた。
「お休み」
「お休みなさいっ」
 布団を上から被り無理やりにでも目を閉じていると、とろとろと眠気が襲ってくる。

 そうして、晴乃が歌い出す。
 早くなったり遅くなったり、時にはつっかえながら何度も何度も繰り返されるメロディ、終わることのない歌。

 遠くにそれを聞きながら、僕はいつしか眠りの世界に入っていた。


END


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