予兆 五日前から、遼くんの姿を見ていない。 プルルルルル。 電話が一階のリビングに鳴り響く。たまたまその日からメイドさん達も、遼くんもお休みの日で、この家には私と遼くんしかいなかった。 冬用の厚めのカーテンの隙間から、ぽかぽかとこの時期にしては暖かな日差しが降り注ぐ。 遼くんは一人用のソファに座り、新聞を読んで。私はソファを背凭れにしながら、床に座って最近買った新しい本を読んで。 特に目立つ会話はなかったけれど。ソファ越しに背中合わせ、つかのまの二人きりだった。少なくとも、私はそれだけでも嬉しかったし幸せだった。 電話には場所的に近かった遼くんが出る。悪いかなと思いつつ、気になってこっそり会話を盗み聞きしてみるとどうやら仕事関連の電話だったらしい。 遼くんのはきはきとした声音の中に、次第に落胆の色が混じっていく。 「……はい、はい。分かりました。今から出社します」 『出社』の単語を聞いて、私はすかさず立ち上がった。 よく遼くんが仕事を持ち込んでやっている書斎に見当をつけて、鞄を取りに行く。勝手は分かっていた。こういうことは結婚以来、全くなかった訳じゃない。 一ヶ月に一回位の割合でやって来る、諦めるしか他にない災害のようなもの……と言ったら、遼くんに怒られてしまうかな? 書斎から椅子の上に置かれていた仕事用の鞄と(机の上じゃなかったから探すのに手間取った)、ちょっと迷ったけど周りに散乱していたファイルをいくつか持って下に戻る。 遼くんはもう着替えていた。 左手の腕時計は、私がクリスマスに贈った物だった。頬が緩むのが止められない。いつもと変わらず、スーツ姿はぴしっとしていて格好良かった。 「ごめん、晴乃。あっちでトラブルがあったみたいで、暫く戻れないと思う」 「うん、分かった。今日は会社に泊まるの?」 本当にごめん、と。遼くんは申し訳無さそうに顔の前で両手を合わせる。 分かってるのに、そんなことしなくて良いのに。小さく顔が歪んだのに気付かれたくなくて、私はそっと頬に手をやった。 「出来るだけ早く帰ってくるから。……じゃあ」 「いってらっしゃい」 鞄とファイルを手渡して、玄関にまで一緒について行く。 書斎にいく前、遼くん付きの運転手さんにささっと電話をしておいた。この扉を開けばもう、黒塗りの車が遼くんを待っているはずだ。 手を振って見送ると、遼くんも軽く手を振り返してくれた。 時々あるこういう時は、無理にでも笑顔で見送ろうと決めている。 これから仕事に集中するべき人に、悲しいなんて、名残惜しいなんて気付かせちゃダメ。仕方ないよ、仕事なんだから。 でも。年が新しくなっても、遼くんは帰ってこなかった。 目次 [次へ#] |