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小説
風来坊
「昨日も慶次様は帰ってこなかったなぁ」
ぽかぽか暖かい陽が降り注ぐ縁側で湯のみを手にひよりは独り言のようにつぶやいた。

もう何日も帰ってこない、利家の甥っ子で、束縛を嫌い自由を愛する前田の風来坊、慶次。
派手な衣装を身にまとい、今頃京の街で酒と女に興じているのだろうか。
いつもこんな調子である。
我らが殿やまつ様に迷惑ばかりかけて…。
特に利家にいたずらばかりしていて、そのたびにまつに怒られている姿をひよりは何度も見てきた。

「人よ恋せよ、かぁ…」
慶次の言葉を思い出す。
もう何日もいない慶次の顔を思いだそうとするがぼんやりとしか浮かんでこない。
思い浮かぶのはやはり派手な衣装と「傾奇者」という言葉。
けれど端正な顔立ちに逞しい体というのはなんとなく覚えている。
慶次が帰ってくると女中がなんだかそわそわして、顔にうっすら白粉を叩いたり唇に紅を引いたりしている姿をひよりは何度か目にしたことがあるからだ。
ひよりだって慶次が気にならないと言えば嘘になる。
しかし自分は男装に近い格好を毎日しているし、多分慶次は自分を男だと思っているはずだ。

きっと京の街では綺麗な女が慶次の取り合いをしてるんだろう。
けれど慶次は誰か一人選ぶなんてことはせず、みんなに好きだよだとか愛してるよだとか言っているに違いない。

「まぁ…自分には関係ないことだしね」
言い聞かせるように、ひよりは左耳の後ろでひとつにゆるく結わえた髪に触れる。
結い紐はまつが古くなった着物から作ってくれた橙色に赤い花の模様が入っているもの。
今朝からずっと下腹部が鈍く痛み、眠くて仕方ないのだ。
気になるほどではないが、まつから午後の薙刀の稽古は休めと言われてしまった。
「すごく楽しみだったのにな、稽古…」
しょんぼりと肩を落とすひよりの隣にいつの間にかまつが座っていた。

「まつ様…。も、申し訳ありません!戦がないからといってこんな呆けた格好を…」
「いいのよ、ひよこちゃん。おいしいお団子を頂いたからひよこちゃんと一緒に食べたいなって」
最近戦の話はなく、女中たちは何人か暇をもらっている。
家臣たちもまた、家に戻る者もいて城にはあまり人がいない。
「ここのお団子、とてもおいしくて。でも、犬千代様に見せちゃうとひよこちゃんの分まで全部食べられちゃうから」
どこから見ても息を飲むほどに美しいまつ。
それでいて利家や慶次にお説教できる唯一の存在。
「そんな!利家様より先にいただくなんて!」
うろたえたひよりの手をまつが優しく握る。
「ひよこちゃんは…いつも犬千代様や私…そしてここの皆さんに良くしてくれて…」
「まつ様…」
「私はね、時々思うの。ひよこちゃんが無理をしてないかなって。前田家のために一生懸命頑張ってくれて、慶次がやらなきゃいけないことも進んでやってくれて…。ひよこちゃんの着物は犬千代様か私のおさがりばかりだし…。今日だって犬千代様が子供の頃に着ていた着物に袴で…」
申しわけなさそうにまつが目を伏せる。
長い睫毛がまつの頬に影を落とした。
「そんなことありません。私を家族のように迎えてくれた利家様やまつ様には感謝してもしきれません。私は幸せ者です」
「ひよこちゃん…!」
二人で顔を見合わせて笑うと、利家がまつを呼ぶ声がした。
「まつぅー!!風呂に入りてぇー!!」
「はい、犬千代様!!ただいまそちらに!!…今日はひよこちゃんもお風呂に入ってゆっくりしてね。ひよこちゃんは…私の妹みたいな存在なんだから。あ、お団子食べてね」

ひよりから手を離したまつがパタパタと風呂場の方へ向かっていくのを見送る。
「まつ様…」
ぺこりと頭をさげたひよりはまつが持ってきた団子に手を伸ばした。
「うわ、おいしい!」
気づけば太陽が傾き、周りの空を橙に染め始めていた。

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