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小説
穏やかな海
「おばちゃん、ごめんなぁ。一匹も釣れなかったよ」
宿に着いた慶次は女将に言うと、女将は大げさに肩をすくめて見せた。
「そんなことだろうと思いましたよ。慶次様は魚よりも女の人を追っかけている方が性に合ってるんじゃないんですかね」
「はは、参ったねぇ。お詫びにおかずはお新香だけでいいや。あと味噌汁があれば」
それでも、夕餉には焼いた鮭が出てきたのが嬉しい。
元親と凪に会いに来るときは必ずこの宿に泊まるので、もう女将ともすっかり顔なじみになってしまった。

夕餉の時間を終え、膳を下げた二人は風呂をいただくことにする。
めったに抜くことはない超刀でも手入れをしなければ傷んでしまうので、ひよりは申し訳ないながらも慶次よりも先に風呂に入った。
ひよりが出て慶次が風呂に入ったのを見たひよりは布団を敷き始める。
慶次が風呂から出て部屋に戻ると、ひよりは卓袱台に伏せて眠ってしまっていた。
手には今日買った可愛らしいがま口の財布。
きっと普段できない会話を凪と楽しんできたのだろう。
「風邪引いちゃうよ、ひより」
そっとひよりを布団に寝かせ、慶次も横になる。
呼吸に合わせてひよりの長い睫毛がかすかに震えている。
「ひより」
湧き上がる欲望に思わず流されそうになった慶次だが、今日はやめておくことにした。
「ひより…」
起こさないよう気をつけながら慶次はひよりに何度も口づける。


夕餉の時間を過ぎても凪がいないのを不思議に思った元親は炊事場にいた部下を呼んだ。
「凪なら…今日ははしゃぎすぎて疲れちゃったからってここで握り飯食べて…気にしなくてもいいって言ってんのに今日だけお願いって頼み込んで先に風呂に入って部屋に行きましたぜ」
部下に礼を言って元親は凪の部屋に向かった。
凪、と呼んでも返事はなく、そっと部屋に入るともう凪は布団にくるまり眠っていた。
小さな机の上には今日買った香袋と、着物の端切れが置いてある風呂敷包み。
「凪…」
愛しても愛しても、愛し足りないのは元親が一番わかっているはずだった。
力任せに貪っても、いつも優しい凪。
すでに風呂に入っていた元親はするりと凪の布団に入る。
「ん…、アニ…元親様…?」
「悪い…。起こしちまったか…?…今日は…しねえから…。せめて一緒に…」
再び船を漕ぎ出した凪の横で、元親は眼帯を外した。
「凪」
「…ん…」
そっと凪の体に腕を回すと、柔らかな呼吸に合わせて体が動いているのが伝わってくる。
「あったけえな…」
髪を撫で、耳に触れ、唇を指でなぞり、小さく細い指に自分の節の太い指を絡めると、凪がなんだか嬉しそうに笑っているように見える。
いつもなら…その小さな体を組み敷いて浴衣の袷を左右に開いていただろう。
元親の体に甘く広がる満ち足りた気持ち。
閉じていた凪の唇がふに、とほどける。
「凪は…こんな顔して…」
まるで口づけをしているようなその寝顔。
ゆっくりと元親は凪に口づけた。

一つの布団で眠る慶次とひより。
一つの布団で眠る元親と凪。
体を重ねなくても、穏やかな海のように満ち足りた時間が流れていく。
静かな波の音が、眠りを一層深いものにさせていった。

ああ、そうだ。

海だっていつも違う表情を見せてくれる。
全てを打ち砕かんばかりに荒い日もあれば、魚が釣れないほど穏やかな日もある。
愛情も…そうなのかもしれない。

夢の中で慶次は思う。
「鬼が戦馬鹿じゃないのはよく知ってるさ。でなければ…そばに子鬼ちゃんなんか置いておかないだろうし…」
そしてまた、元親も夢の中で思う。
「あの風来坊が…あんなにあの子を大切にしてんのは…心の底からあの子を愛しているからなんだな…だからあんなこと言えるわけで…」

あたたかい夢。
穏やかな海。

夜は更けて、猫の爪のような月が輝きを増していく。

「けい…じ…さま…」
「も…とち、か、さま…」
ひよりも凪も、愛しい男の名前を紡いで夢の中。

春の気配が感じられてきたとはいえ、まだ夜明けは遠い。

穏やかな夢の続きを見よう。
大丈夫、怖い夢は俺が食ってやる。
だから…ずっと一緒に…。



おわり

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あきゅろす。
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