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恋桜―こいざくら―

  ほんの些細な触れ合いにも拘らず、空の身体が大袈裟なほどに揺れたのを、貴文は見逃さなかった。   
 
「ん?どうしたんですか?先輩…」   
「べ、別に…。っつうか、何すんだよ…」 
 
  貴文はふわりと柔らかで、誰にでも好まれそうな微笑をたたえ、『髪に桜の花弁がついてたんです』と、ひらひらと花弁を空に見せながら、春風のように掠める声音で言う。 
  一瞬、耳に入り込む貴文の声にブルリと背筋を震わせる空だったが、それでも目の前で微笑を絶やさない貴文への虚勢は崩さなかった。   
 
「んなの、ほっとけ…」 
 
  空は、貴文の手元から視線を意識的に外し、背を向けた。 
  貴文の行動の一つ一つに目を奪われ、やけに踊り狂う胸の鼓動。
  名付けることの出来ない、自分の変化に戸惑う。   
 
「っつうか内藤さ、悪ぃけど一人にしてくんね?」 
 
  何気に呟いた空の一言に、長めの前髪の奥に潜む瞳が大きく見開かれた。   
 
「せ、先輩!オレの名前覚えてくれてたんですねっ」 
 
  へ?…   
 
「…っ!う、うわっ」 
 
  初めて会ったあの日、逃げるようにその場を去る間際に投げかけられた、“内藤貴文”と言う固有名詞が、空の耳にしっかりと残っていたことが余りにも嬉し過ぎて、貴文は思わず空を抱きしめていた。   
 
「―…っ!!」 
 
  貴文の抱きしめる腕の強さに、必死に抗うが、身体全体で感じる貴文の逞しさに空が適うはずもない。 
  勢いに任せ抱き締めて来た貴文が、なぜそんなに名前を呼んでもらっただけで喜ぶのか、少しも…空は分かってはいない。   
 
「ちょっ、ちょっと待て!やめろって!」   
「あっ!…すみません、つい…」 
 
  つい…ってなんだよ。
 
  ゆるりと空を抱きしめた腕を放しながら、頬をほのかに染める貴文を視界に入れてしまった空は、怒鳴りつけてやろうとした気持ちを奪われ、逆にらしくない小声にさえなってしまった。    
 

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