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人物史
張飛 翼徳パート1
張飛は三国時代に劉備と張飛の建国した蜀漢に仕えた武将。『三国志 (歴史書)』では張益徳。なお、『三国志演義』では張翼徳としています。封号は新亭侯で、諡は桓侯です。子に張苞・張紹、敬哀皇后・張皇后がいます。

タク郡の人。元は肉屋だったともいわれています。同じ幽州の出身である劉備が黄巾の乱の族を討伐するため義勇兵を集めようとした時、関羽と共にその徒党に加わり、その身辺警護をつとめる事となりました。以後は終生、劉備から兄弟の様な愛情を受けることとなります。また、関羽の方が数年年長であったため、関羽を兄のように敬愛して仕えていました。

やがて劉備が公孫サンに取り立てられて平原郡の相となると、関羽とともに別部司馬に任じられ、それぞれが一軍を率いる将となりました。

194年、劉備は身を寄せていた徐州牧・陶謙に位を譲られて徐州の牧となります。しかし、袁術との戦いの最中、呂布にその隙を突かれて敗ぶれます根拠地を失ったため、曹操の元に身を寄せます。

195年、呂布を討たんとする曹操の軍に劉備とともに従軍します。張飛はその戦いでの功績を認められて、中朗将に任命されました。その後、劉備が曹操に背き、袁紹、劉表に相次いで身を寄せると、それにも付き従って、各地で転々としました。

208年、荊州牧・劉表が死ぬと、曹操が荊州に南下します。曹操を恐れた劉備が妻子も棄てて、わずか数十騎をしたがえて逃げ出すという有様の中、張飛は殿軍を任され、当陽の長坂において敵軍を迎えます。張飛が、川と二十騎の部下とを背にして橋を切り落とし、「我こそは張飛である。いざ、ここにどちらが死するかを決しよう」と大声でよばわる(吠える)と、曹操軍の数千の軍兵は先に進もうとせず、このために劉備は無事に落ち延びることが出来ました。

211年、劉備が劉璋に招かれて益州入りした後、212年、法正らと謀って益州を奪い取る事を企てると、諸葛亮と共に援軍として後発。巴郡太守・厳顔を生け捕りにしました。

221年、劉備が蜀漢を建国すると、車騎将軍・司隷校尉に栄転し、西郷公に昇進しました。同年、劉備が呉に対して荊州奪還戦の準備をしている最中、かねてから張飛に恨みを抱いていた部下の張達・范彊に殺されました。劉備は張飛の都督から上奏文が届けられたと聞くと、号泣をし、復讐の念にかられたそうです。

260年、劉禅によって桓侯と諡された。

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