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人物史
関羽 雲長パート3
三国志を著した陳寿は、正史・関羽伝の最後に張飛の人物評と併せてこのように記述しています。 「関羽・張飛の二人は、一騎で万の敵に対する武勇があると賞賛され、一世を風靡する剛勇の持ち主であった。関羽は顔良を斬ることで曹操に恩返しを果たして去り、張飛は厳顔の義心に感じ入ってその縄目を解き、両者並んで国士と呼ぶに相応しい気風を備えていました。しかし、関羽は剛毅が行き過ぎて傲慢であり、張飛は乱暴で部下に恩愛をかける配慮が無く、これらの短所が仇となって、あえなく最期を遂げる事となりました。世の理とは、こういうものなのだろう」

三国志演義では
『三国志演義』では、関羽は青龍偃月刀と呼ばれる大薙刀を持ち、赤兎馬に跨っていました。主人公的存在だけあって、史実に比べ、活躍は非常に華々しいものとなっています。講談や元曲・京劇(戯曲)などでの創作が、積極的に取り入れられていると思われます。
たとえば、董卓配下の猛将、華雄を、曹操に勧められた酒が冷めないうちに斬った話。袁紹軍の顔良のみならず、その同僚、文醜をも討ち取った話。曹操の元を去るとき、曹操軍の検問に見とがめられて、6人の将軍を斬り殺して突破した話。赤壁の戦い後、敗走する曹操軍を華容道で待ち伏せするが、検問突破を不問に付した恩義を衝かれ、見逃した話。孫権軍に処刑されたあと、呂蒙を祟り殺した話など、全て創作であることなどです。

また、養子として関平が、次男として関興、三男として関索が出てきます。正史によれば、関平は実子です。関興は諸葛亮にその才能を評価されていたものの二十数歳で亡くなっていた様です。関索に至っては正史やその註にも一切記載が無く、後世に作られた伝承で実在しない人物だと言われています。

死後は呂蒙を呪い殺したとされますが、義理堅い関羽の印象にそぐわず、また非現実的であることなどから近年では削除される事もあります。

呂蒙を呪い殺したとされる内容は孫権は祝宴をひらいて呂蒙を第一の功労者として上座に座らせ、呂蒙に 親しく杯を渡し、呂蒙は恭しく杯を受け取りましたが突然杯を地面に叩きつけるなり孫権の胸倉を掴んで押し倒し「我こそは関羽なる。」と大喝しました。一同が顔色を変えて平伏すると呂蒙はばったりと倒れて血を吐いて死んだといいます。関羽の魂が乗り移ったと言われています。



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あきゅろす。
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