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人物史
関羽 雲長パート1
関羽の出身地は中国最大の塩湖である「解池」の近くにあり、その出身地から塩の密売に関っていたといわれています。また、暴利をむさぼる塩商人を殺したともいわれています。官吏に追われて幽州に逃げ、おそらく姓名を変えて関羽と名乗ったのでしょう。その後、劉備・張飛と出会い、劉備に忠誠を尽くしました。黄巾の乱の時からの劉備の部下です。地元・山西省の研究では、関羽は劉備より年上ながら、劉備を兄として仕えたといいます。

曹操が呂布を破った後、劉備が曹操を裏切って破れ袁紹の元に逃げると、曹操の捕虜になりました。ちょうど袁紹と曹操が戦っている最中でしたが、曹操は関羽の武勇に惚れ込んでおり、どうしても関羽を手元に残したいと思い功を立てると必ずや劉備のもとに戻ると考え、様々な贈り物をしましたが、関羽はこれらを蔵に収めて封印してしまいました。白馬の戦いでは、敵将の顔良を大軍の真っ只中で討ち取りましたた。その功績を置き土産にして、袁紹の下にいる劉備の下へ去りました。曹操はその義に感嘆し、関羽を追いかけようとする部下に対して、彼を追ってはならないと言い聞かせました。このとき、張遼も関羽を説得しています。
赤壁の戦いの後、劉備が益州を攻略すると、関羽は荊州の守備を任され、魏・呉に睨みを効かせていました。彼の荊州の統治ぶりは、呉志『陸遜伝』によれば、恩得と威信が行き渡っていたものであったようです。しかし関羽は部下には優しいが、同格の士大夫を見下すという悪い癖があり、このことが後に彼自身の災いを招くこととなります(関羽は庶人から成り上がっており、もともと士大夫より低い身分でした。反対に張飛は部下には苛酷ですが、士大夫は尊敬するという性格でありました。)
215年に、呉の魯粛・呂蒙らが長沙・桂陽・零陵の三郡を襲撃すると、関羽は三万の兵を率いて益陽に布陣。劉備も大軍を率いて関羽の助成に駆けつけ、一時は蜀呉同盟の崩壊の危機に至りました。しかし、関羽と通じた長沙の安成、攸、茶陵の三県、揚州廬陵の永新県の官吏らが桂陽の陰山城で謀反を起こし、続けて中郎将の袁龍らが反乱を起こしたこと、さらにこの年、曹操が大軍を率いて漢中の張魯を攻撃したこと、これらが両陣営に和平の機運をもたらし、関羽と魯粛の対談が実現しました。結果、湘水を境界線とし、長沙・江夏・桂陽は呉領に、南郡・武陵、そして一度は奪われた零陵が蜀領となりました。



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