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合戦集
磐河の戦い その二
広大なわりに貧弱な公孫攅の支配圏を、内部から揺り動かしていくのが袁紹の基本戦術でした。まず、袁紹は幽州東部の燕国にいる[閻柔]という人物がその人徳で慕われているのに目を付けて、彼を旗印に公孫攅に対して反乱を起こさせたのです。この閻柔の反乱には漢人だけでなく、[烏丸族][鮮卑族]たちも同調し、またたくまに数万規模の大反乱というより[反公孫攅連合軍]とも言うべき一大勢力となっていきました。そして袁紹も、これに合わせるように冀州から出陣し、幽州に侵攻を開始します。東西から二正面で攻撃されることになった公孫攅ですが、前に書いたとおり彼の周囲には凡庸な者しかおらず、戦うたびに敗北するという有り様で、とうとう[易京]という城に追い詰められてしまうのでした。公孫攅は最期の抵抗として、易京に十重の塹壕をめぐらし、さらにそれぞれの塹壕の後ろに土山と城楼を築いて鉄壁の守りを固めたと言います。公孫攅は、ここに三百万石の穀物を貯めこんで『兵法には百の城楼は攻撃しないとあるが、私の城楼は千重ににもなっているので決して破られることはない。ここにこもって貯めた穀物を食い尽くしている間に、天下の形勢は変わっているだろう』と豪語して、籠城を決め込んだのでした。信じられない話ですが、公孫攅のその部下たちは易京において四桁に登る城楼を築いて、公孫攅自身はその中央の1番高い城楼で下女や側室たちとこもって、決して降りようとせず、公文書すら縄で釣り上げて連絡させたというのですから、壮大なスケールの引きこもりです。これに対して袁紹は、完全に正攻法で包囲します。公孫攅が黒山賊に援軍要請をしようとしても、この密使を捕らえて逆にこれを利用して、援軍が来たと思って城を出た公孫攅軍を伏兵で散々打ち破るなど、文字通り蟻のはいでる隙間もない重囲ぶりでした。そして包囲するだけではなく、易京の防御が城楼を中心としたものなのに目を付けて、地下道を掘って易京の城楼の土台を掘り崩して次々と城楼を破壊していったのです。やがて絶望した公孫攅は周囲の下女や側室たちを自ら殺し、自分も自殺したのでした。

なんとも哀れな最後を遂げた公孫攅でした。

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あきゅろす。
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