無音に床下に幻覚に戯言
今や医務室には数人の見張りにあの医者が最低二人、そして来てしまったあの人が居る筈なのに、中からは何も聞こえなかった。
普通ならば気配を感じるのに今はそれすら無い。初見の人なら部屋の中には、誰も居ないとすら思うだろう。
「……えぇぃ、行くぞ」
「……………」
再び『服屋』が扉に手を掛ける。数十人もの人間が全員は入れるかどうかは分からないが、前に進まなくてはならない、
室内は何が起きているか、等の予想は全くの無意味だ。何かとんでも無い事が起こっている、程度の朧気なものぐらいしか役に立たない。
扉を開くと、目の前に見張りが立っていた。逆立ちした状態で。うわっ、と熊人が驚くのが見える。体勢は揺れず震えず、完全に固まっていて。
どうしてこうなったのか、等の予想は無意味。結果だけを受け止める。それが懸命。誰かが見張りの脈はある、要するに気絶していると言った。
「ヤッホー、メーデー!元気な野菜を育ててるみたいで良かったねぇ!上履きは湿ってるみたいだがな!」
溌剌とした声が室内に響き渡る。声の主は上に見張りが積んであった机の下に挟まっていた。
正確には付属の引き出しの下に。目測自分の脛程度の高さ。相変わらずの様だ。
透き通る様な翠色の瞳を爛々と輝かせた、艶のある黒髪を備えた人間の男。顔は居る場所が場所だけに潰れてはいるが、多分笑っているのだろう。
「久し振りっすね、元町長…」
「おっ!その音は良くステンドグラスを作ってはパンに塗ってこんがり蒸してた奴だねぇ。懐かしい匂いだ……」
「………………」
フレイカ=キャストラム。元町長であり、そして本人公認の元、完全に狂っている存在だ。
「……か、彼は一体」
「……あまり探っても無駄ですよ」
怯える熊人に忠告を送った。彼は幻聴と幻覚を患っていて、おまけに自分達に比べると一般常識が大分歪んでいる。
話によると机とベッドの区別が付かない。大体口から出す言葉が先程と同じ様な内容。
「虹色が耳に眩しいから困る!しかし生肉を転がしてあるのは全く風流とは思わないっ!」
「…………」
しかし、困った事に彼は有能なのだ。在職中に出た苦情は両手の指で数えられる程度。
尤も彼が、町の最後の町長だったのだが。
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