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小説
プロローグ
 3月は引っ越しシーズンということで。
 先週、隣が引っ越しして行ったようだなと思ったのも束の間、今日、マンションの表通りに引っ越し業者のトラックが横付けされた。台所の、身長くらいの高さがある窓からそれを見遣って、歯磨きしながらフーンと伺う。ここは駅から近い単身者用の1Kマンション、トラックの大きさも若干こじんまりとしているため、引っ越してきた人もきっと1人暮らしだろう。
―――このタイミングなら、もしかして、お隣さんか引っ越してきたか?
 そして、夕方、ピンポーンと、気が抜けるインターフォンの音が家の中を木霊した。スパゲティを茹でようと沸かしていたお湯を一旦止めて、インターフォンに出る。
 トラックを目に止めて約半日、このタイミングだと、挨拶に訪ねて来られても心づもりは万全だ。
「やっぱ、隣、ビンゴだな。」
―――可愛い女の子だと、なんだか、生活に張りが出て、嬉しいんだけど。
 今、自分の通っている高校は、中高大一貫の男子校で。その上、教師も大体男ばっかりで、何だか、男臭いことこの上無いわけで。せめて、ささやかな願いだが、お隣さんくらいは、同年代の可愛い女の子であって欲しい。
『はい。』
『あの、隣に引っ越してきたものなんですけど。』
―――…女の子、では無かったみてえ…。
 そのインターフォンから聞こえてきたそわそわした声は、どう考えても女の子、では無い。若干の、ガッカリ感は否めないが、まあ気持ちを切り替えて、男でも友達に慣れそうなら、と、第二希望に望みを託す。
『はーい、今、出ます。』
と、機械を通したくぐもった声で返事して、廊下をパタパタとスリッパを滑らせて急ぐ。
「あ、初めまして!俺、隣に引っ越してきた、真田と言いますっ。」
 緊張して若干キョドっているのか、ドアを開けた瞬間、彼は腰を大きく折って頭を下げてしまった。これじゃあ顔が見えないから、どんな人か分からない。
「は…、はあ。」
 完璧に、その熱血な勢いに圧倒されつつも、落ちてきた黒縁眼鏡の真ん中を押し上げながら、心持ち会釈する。
「これ、良かったら、お菓子…。」
 彼はその頭を下げた姿勢で、脇に抱えていたものを、表彰状授与のように両手で手渡してくる。地元の銘菓らしい。えっと、信玄餅…、信玄…、山梨?
「ありがとうございます。えっと、学生さんですか?」
 普段は、「ありがとうございます」、で、挨拶は終わりなんだが、何だか、色々聞いてみたくなった。とりあえず、無難な質問をしてみる。
「え?」
 面を上げた、初めてはっきり見たその顔は、男のくせに可愛いらしい感じで、黒目勝ちで目が大きい。思わず、必要以上にじっと見てしまって、視線に気づいた相手は、不思議そうに目を瞬かせた。
「いや、あの、ごめんなさい。俺と同い年くらいかな、と思って。」
「ああ、この前までは大学生でしたけど。俺、明後日から、社会人です。」
 そう告げて、彼は、にこっと破顔した。なんだよ、この可愛いすぎる笑顔。何だか、何もかも許してしまいそうな、破壊力だ。しかも何だろうこの人、すっごく庇護欲をくすぐるんですけど。
「ええっ、社会人で?」
 けれど何より自分は、その彼の返事の内容に必要以上に驚いて、思わずそう切り返してしまう。失礼この上ないのだが、自分より絶対年下だとふんでいたからだ。
 優し気なその人は、自分の非礼など気にすること無い様子で。
「俺、初めて上京してきたので。都会は怖い人ばかりかと思っていたんでござるが。お隣さんが優しそうな人で良かった。」
 人懐っこい笑顔で、そうハキハキと告げた。
「は、はい。俺で良かったら、何でも聞いて下さい。この辺のことなら、俺、結構詳しいですから。スーパーの冷食の安売りの日とか、卵の特売とか、あとあと、クリーニングの割引日とかっっ。」
 相手が引くくらいの必死さを滲ませて、そんなことを口走ってしまった。俺は、ちらし大好きな主婦かってえの!
 ぷぷっと、彼は、思わず吹き出してしまったようだ。
「あ…あの…。」
「いや、ごめんなさい。そんな男前な顔なのに、庶民的なんだなあと思ったので。」
 ぜひ、今度お願いします、と、ますます心がほんわかするような笑顔で彼は告げて。
「じゃあ、失礼しました。」
 ペコッと、これまた礼儀正しくお辞儀して、彼は去ってゆく。その場に残された自分は、若干、名残惜しさを感じてしまった。
「あ、どうも…。」
 相手に聞こえているんだか不明な音量で、その隣に帰ってゆく背に、ぼそっと、そう告げる。
 そっと戸を閉めて、お菓子の箱をぎゅううと胸に抱きながら、ドアに背を預けて、しばらく、ぼんやりとする。
「可愛い女の子、では、無かったけど。」
 ―――「可愛い」だけは、俺の勘が当たってたな。
 社会人か…どんな仕事なんだろ。あのほわほわした雰囲気なら、保育園の先生とかかな。
 これから、春爛漫の季節に突入してゆくわけだが、俺の人生にも、とうとう春が来たりして。
何だか、良い予感がしてきて、自分は鼻歌交じりで、キッチンへ戻った。


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あきゅろす。
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