猫は頭上で丸くなる 守護するモノ 「まあ、いいや」 亜季ちゃんは自分のカバンから一冊のノートを取り出しました。 この世界のノートというのは素晴らしいのですね。こんなに薄く、そしてたくさんの紙が一冊にまとめられている。この技術がわたくしたちの世界にあれば、もっと便利になるでしょうに。 そんなことをぼんやりと考えつつ、亜季ちゃんの次の行動に注目いたします。 すると、彼女は万年筆と呼ばれるものを手にしていました。 「じゃーん、百均で買いました!」 亜季ちゃんはその万年筆を掲げるようにして、とても楽しそうに言います。 百均というのも、わたくしは初めて知りました。この世界の商人たちの仕事は素晴らしい。 「後利益少なさそう」 きみちゃんはどうやら、百均という店が好きではないようです。 とても安くてありとあらゆる商品が並んでいるというのに。 「いいのいいの! こういうのは気持ちの持ちようなんだよ!」 亜季ちゃんの笑顔は崩れません。 そして、開いたノートはどうやら新品らしく、何も書かれていません。その真っ白なページに、彼女は真剣な視線を落としてからゆっくりと時間をかけて単語を書いていきました。 『恋愛成就』 「きたよきたよ、亜季の片思い」 きみちゃんはくすくす笑います。 千夏様も多少、その口元を緩ませています。 「なかなか上手くいかないんだもん」 亜季ちゃんは唇を尖らせ、万年筆を机の上に置きました。そして、今度はシャーペンとやらを手に取りました。 このシャーペンとやらも素晴らしいものなのですね。書いても消せ……ああ、すみません、珍しいものばかりでわたくしも感動してしまって。 「わたしもさ、色々頑張ってるんだよ。でも、浩ちゃんってば、全然相手にしてくれないんだもん」 彼女は違うクラスにいる少年に恋をしているようでした。 ただ、あまり上手くいっていないようで、この三人が集まると時々、その話題になります。 きみちゃんは少しだけ首を傾げながら、こう言います。 「アプローチの仕方が違ってるんじゃないの? 何だっけ、この間、変な人形に赤い紐を巻いて北東に向かって祈りを捧げる、とかやってたじゃない? あれ、絶対に何か間違ってるって! 恋愛のおまじないじゃないでしょ」 「時代によっておまじないは進化するんだよ」 「何それ」 「確かにあれはちょっと違ってるんだよね。本当のやりかたは、その人形を水に沈めてカッターで」 「あー、解った解った、それで? ほらほら、時間ないんだから早く」 きみちゃんはぐりぐりと亜季ちゃんの頭を撫でまわし、ノートの続きを書けと促しました。亜季ちゃんはどうやら本当の儀式とやらについて熱く語りたい雰囲気を醸し出していたのですが、すぐにシャーペンでノートに絵を描き始めました。 「お、結構上手いじゃん」 きみちゃんは感心したような目つきで亜季ちゃんの手元を見つめています。 千夏様は何かに気づいたようで、くすりと笑いました。 「その人、知ってる。亜季ちゃんの好きなバンドの人でしょ」 そう言って、千夏様はノートに描かれた人物像を見詰めます。 それは長い髪の毛の男性でした。 痩せていて、全身黒い洋服に身を包み、鋭い目つきでこちらを見詰めるようにして立っています。その左頬には何かの痣のようなものがあります。 確かに決して、素晴らしく芸術的な絵だとは言えません。しかし、とても特徴的な魅力のあるものでした。 「そう、今一番おすすめのバンドのフォーリンアップルのベーシスト。超カッコイイんだから! そして、めっちゃ上手いんだよ、ベース!」 「解った解った」 そろそろきみちゃんも亜季ちゃんの言葉に逐一文句を言うのも疲れたのか、聞き流すようにしたようです。「ほらほら、続き」 「あ、だよね」 亜季ちゃんはそこで大きく深呼吸をしました。 どうやら、呪文の詠唱が始まるようです。 「私は今、あらゆる知識と知恵の根源に通じています。そして、この大いなる宇宙精神が、守護精霊の形をもって私に現れます。その守護精霊の名前は持田暎一です。彼は私の生活に……真実の愛情をもたらすものに必要な、全ての能力を持っています」 時折、多少の含み笑いを交えつつも、彼女は呪文を唱え終わりました。 そして、きっと教室にいる誰もが見えなかったのでしょう。 亜季ちゃんの背後に、少しだけ変化が現れましたが、誰一人としてそれに注意を払う者はいませんでした。 ゆらりと地面から影らしきものが立ち上ったかと思うと、そこには絵に描いた通りの――いえ、それよりもずっと現実的な肉体を持った青年が姿を現したのです。無表情ではありましたが、穏やかな瞳をした青年です。 「ふっふっふ、きっと今度こそ、思いは通じるはず」 亜季ちゃんは背後など全く視線を向けず、ただノートを見下ろして不遜な笑みを浮かべています。そんな少女の背中を見下ろす『守護精霊』、もちだ……何でしょうか、べーしすととかいう人です。 「ま、やるだけならタダだしね。当たればラッキー、宝くじみたいなもんか」 きみちゃんは頭を掻いて、苦笑を漏らしました。 千夏様はまじまじと亜季ちゃんの背後を見つめていたようですが、どうやっても何も見えないようで、ただ残念そうに首を振って呟きます。 「やっぱり、見えないねえ」 「見えないけどいる、と考えたほうが夢があるよね」 亜季ちゃんはニヤリと唇を歪めました。「しかも、憧れの暎一さまだよ、暎一さま!」 「……さま」 「ああっ、でもいつでも一緒にいる、ということは着替えている時とかお風呂とかも一緒というわけで!」 ぺしん、とその頭がきみちゃんに殴られます。 殴られた頭を押さえながら、亜季ちゃんはまた唇を尖らせて不満を訴え始めました。しかし、すぐにそれを遮ってきみちゃんは言います。 「はたから見てると変だからやめれ」 「ちょっと妄想したっていいじゃない」 「浩ちゃんはどーした、浩ちゃんは!」 「そっちは現実世界の恋。非現実世界の恋の難易度は、エベレストよりも高いのだ!」 「ダメだこりゃ」 さすがにきみちゃんは肩を竦め、疲れたように目を伏せました。でもやがて、何かに気づいたように続けます。 「人間じゃなければ覗きとか気にしなくていいんじゃない? 守護精霊を、とんでもなく強いドラゴンとかにすればさ」 「あー」 亜季ちゃんは顔をしかめ、首を傾げました。「よくわかんないけど、動物系はダメらしいんだよねぇ」 「ダメ?」 「うん、雑誌には守護精霊は人間の形にすべし、とか書いてあったよ」 「へー」 「え、ダメなの!?」 そこで、千夏様が少しだけ慌てたような声を上げました。ただ、自分で考えていたよりもずっと大きくなってしまったことに気づいて、すぐに手で口を覆います。 「何、まさか動物を守護精霊にしたの?」 亜季ちゃんが目を細めて千夏様を見つめ直します。 千夏様は辺りを気にしながらも頷いて、声を潜めて言いました。 「わたしがネットで見つけたサイトには、そんなこと書いてなかったから」 「ネットのやりかたでやったのかぁ。結構、やりかたもまちまちだから……どうなんだろ、動物でも大丈夫なのかなあ」 「どうしよう」 千夏様はおろおろとした様子で亜季ちゃんの手を握りました。「どうしたらいいかな、わたし、失敗した?」 「どうかなあ」 亜季ちゃんは手を握られたまま小さく唸りました。「じゃあ、とりあえず放課後になったら確認してみようか」 「え、確認? できるの?」 「こっくりさんをやって訊いてみようじゃないかぁ!」 「そっちかよ」 すぐさまきみちゃんからツッコミが入りました。 ところで、こっくりさんって何でしょうか? わたしはそう考えながら、わたしの足元を見下ろしました。 そこには、わたしの守護獣であるユージンが丸くなって眠っています。千夏様いわく、銀色の巨大な狼、という見かけなのだとか。 守護獣というのは、わたくしが住む世界には当たり前のように存在している生き物であります。 凄まじい魔力と、高い知能を持った獣。 神々の使いとも呼ばれる彼らは、通常は森の奥に住んでいて、街中にはやってきません。 ただ偶然、わたくしは森の中に騎士たちを引き連れて入った時に出会うことができました。そこで、凄まじいまでにご都合主義的に気に入られて、ユージーンと契約を交わすことができたのです。 守護の契約。 彼らが我々と契約を結び、我々を守ってくれるのは、それなりのお返しが必要になります。わたくしは何としても彼らの住む森を守ることを約束し、その代わりに――という流れなのです。 まあ、これは全て、千夏様の頭の中で作られた設定でございます。 何しろ、我々は――わたくし、ルイーゼ・クラフトも、そして守護獣ユージーンも、どこにも実在しません。 千夏様の頭の中で作られただけの存在です。 千夏様は趣味で小説を書いていらっしゃいます。 パソコン、という不思議な四角い形のものに向かって、毎晩文章を打ち込んでいらっしゃるのです。 その情熱は、勉強にかけるそれよりも数百倍上なのでしょう。 宿題というものを素早く終わらせた後に、ひたすら小説を書く千夏様は、とても幸せそうな表情をしています。 時々、「この設定、中二病って言われるかも……」と落ち込んだ様子を見せつつも、わたくしルイーゼ・クラフトのささやかな冒険と、そして毎年一回くらいは恋に落ち、そして敗れるという悲しみを与えてくださる彼女は、わたくしにとっては神様のような存在でもあるのです。 でも、一回くらいは恋を実らせてくださってもいいのでは? 何なのでしょうか、一章につき一度、恋に落ちて敗れるという様式美を作られたことはお恨みいたします。 わたくしだって、幸せな恋がしたいです。 でも、ドラマティックな出会いがあっても、全て物語のラストで壊れるというのは……壊れるというのは……! 「理解した」 わたしが必死になって色々語っていると、目の前にいる不思議な甲冑を着た男性が静かに応えてくれました。 本当に理解してくださったのでしょうか。 わたくしが視線を上げて彼を見詰めますと、彼は気難しげな表情をして見せたようでした。 ようでした、というのは、あまりよく見えないからです。 彼は我々の国で使われているのとはあまりにも違う甲冑をその身に着けていました。動きにくそうな甲冑です。そして、顔のほとんどを覆っている兜も、今まで見たことのない形をしていました。 腰から下がっている剣も、こちらでは日本刀、と呼ばれているようです。鞘は細く、女性でも扱えそうに見えますが……どうなのでしょう? 「拙者はあまり強くはない。だから、あまり彼女を守ってやれないのだ」 彼は静かにそう続けました。「お主がもしも守ってくれるというのなら、お任せしよう」 「いいえ、あなた様はお強いです」 わたくしはそう心の底から思いました。目の前にいる男性は、きっとこの世界の騎士なのでしょう。 そして、わたくしよりももっと立場が上のおかたなのです。つまり、守護という役目を持つ存在としては。それが直感的に解ります。女の勘というものでございます。 彼はわたくしがこの世界にやってくるまで、ずっと千夏様をお守りしていたもでしょう。ユージーンと同じような存在なのだと思います。 「いや、拙者もそろそろ、役目を終える時期にきた」 彼はそこで少しだけ笑い声を上げました。それは、しわがれていたものの、知性の高さを含んだものでございます。 「これも何かの縁。ぜひ、そなたに任せたい」 「……しかし、できるのでしょうか」 わたくしはそっと千夏様を見詰めました。 誰かを守るという役目は、今までにしたことがございません。いつも誰かに守られる立場でありましたから。 それはもちろん、戦うだけの術は知っております。でも、それらの全ては、自分自身を守るためのものでした。 「何とかなるだろう。ただ、あの女子には注意が必要だが」 彼はそう言って、亜季ちゃんを見詰めました。 何となくその理由は解ります。 亜季ちゃんは、危険なものをその身体にまとわりつかせていることが多い少女なのです。全く、不思議なことです。どうしたら、あんなに後から後から新しいモノを連れてくるのか。 「……それが一番不安ですね」 わたしはそう頷いてから、そっと彼に訊きました。 「あの、お名前を伺っても?」 すると、彼は軽く頭を下げて応えました。 「宮城義時(きゅうじょうよしとき)と申す」 「キュウジョウ様、ですね」 わたしも彼に礼儀正しく頭を下げました。「できるだけご期待に添えますよう、努力いたします」 [*前へ][次へ#] [戻る] |