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猫は頭上で丸くなる
家族
「出ていけ」
 モモを蹴った男――長兄のほうが鋭く俺に言った。慌てたように辺りを見回し、知らない人間がここにいることに対する不快感を露わにしながら。
 もう片方の男は、乱暴に俺の肩を掴んで自動ドアのほうへ押しやろうしてしてきている。それを振り払いながら、俺はちょうど目に入った陳列棚にあった文具用品のところに目をとめた。
 ボールペン。マジック。チョーク。
 制服のズボンのポケットに手を突っ込んだけれど、小銭は入っていない。
 買えない。

「先輩! 何か書くもの持ってません!?」

 そう叫びながら振り返ると、ちょうど西園寺先輩が俺の肩に手を置いて外に出ようと促してきた。
「持ってないよ」
 彼は困惑しながらも口早に言う。「何をする気?」
 俺は怒りの感情に流されていたせいか、自分が口にしている言葉を相手がどう思うかなんて考えずに言った。普通だったらこんなこと言わなかっただろう。
「『何か』召喚してあの男を蹴ってもらう! あのワンコがやられたのと同じように痛い目に遭ってもらうんだ!」
「トール、落ち着け。帰ろう」
 榊原先輩も困惑しきったように俺を見つめ、そっと首を振った。
 西園寺先輩がその隣で、少しだけ考え込みながら「召喚……?」と呟いている。

 アルバート・ルーファスという男は、何でもできた。
 召喚術だって、呼吸をするかのごとく当たり前のように。呼び出した魔物に命令を下して自由自在に操ることだって、簡単すぎるくらいに。
 前世の記憶は曖昧なところもある。思い出せないこともあるし、おそらく前世の世界とは魔術の構成だって違うこともあるだろう。実際に、前世で使っていた魔法陣はこの日本で上手く発動しないことだってあった。
 今の自分はアルバートほど無敵ではない。
 でも、少しくらいなら……。

「あれ? 魔術を使わなくてもただ蹴ればいいんじゃねえ?」
 ふと、素に戻ってそう呟くと、榊原先輩が無言で俺の頭を軽く叩いた。
 ひでえ。
 俺は彼女を恨みがましい目つきで見たと思う。しかし、彼女の視線はもう、俺には向いていなかった。
 彼女はコンビニの中に立っている幽霊――もうすでに少年とは言い難い、青年を見つめていた。

 最初見た時は、幼い少年だった彼。
 しかし今は、彼が成長した姿であるだろう、二十歳過ぎの男性へと変化していた。少しだけたれ目の、気の良さそうな横顔。でも、凄く寂しそうな目つきで宙を見つめていた。
「……失敗したんだろうなあ」
 彼は小さく囁いた。
 その声は、俺と榊原先輩にしか聞こえなかっただろう。
 コンビニの中にいた大人たちは、ただ俺たちを追い出そうとしているだけで、幽霊が何を言ってもそれに対する反応を返さなかった。

「真面目に育ててきたと思ってたんだ。そりゃ、悪ガキどもだったし、他人にはできるだけ迷惑をかけるなと言ってきたが……まさか、なあ」
 そう、彼は苦笑交じりに呟いている。
 そうしている間に、彼の姿はゆっくりとまた変わろうとしていく。凄まじい速さで年を重ね、二十代から三十代、四十代へと。
 目尻に刻まれる笑い皺、穏やかな目つき。その視線がゆっくりと床へと向けられた。
 彼の足元に座っているのは、真っ白な犬。シロ。

「すみません」
 榊原先輩がそんな彼を見ながら、女性に声をかける。「信じてもらえないかもしれませんが、ここに白い犬を連れた男性がいるんです。心当たりはありますか?」
「え?」
 女性は警戒に満ちた目で榊原先輩を見つめ、迷惑そうに首を振った。「ごめんなさい、冗談に付き合ってる暇はないの。ちょっと、これから病院へいかなきゃならないから」
「病院」
 そう聞いて榊原先輩が顔を曇らせる。

 救急車。
 彼らの父親。
 そして、幽霊。

「金はない。使い果たした、そう言ってくれないか」
 幽霊がそう言って、俺と榊原先輩を見つめた。
「使い果たした?」
 俺が思わずそう繰り返すと、幽霊は虚脱したかのような表情で肩をすくめたのだった。
「そう、宝くじってやつだ」
「宝くじ?」
「お金ってそのこと?」
 俺と榊原先輩が同時に言う。そして、思わず顔を見合わせた。

「お忙しいでしょうから簡単に言います」
 すぐに榊原先輩が女性に向き直り、静かに言う。「宝くじのお金は使い果たした、と『ここにいる男性』が言ってます」
「冗談はやめて」
 女性がさすがに怒ったように顔をしかめ、俺たちに近寄ってきた。そしてそのまま、榊原先輩と俺の背中を押すかのように手を置いた。ただ、片方の手でモモを抱いているから、その力は弱い。
 榊原先輩は一瞬、どうしようか悩んだみたいだった。でも、諦めたように笑う。そして、そのままコンビニを出て行こうとした。
「ちょっと待ってください」
 そこで俺は思わず声を上げた。「筆記用具、貸してください。後で掃除もします」
「何を言ってるの」
「相手にするな、そいつらおかしい」
 女性が俺を睨み、その背後で男性二人が声を荒げていた。

「お金、ここに置いておきます」
 ふと、そこに割り込んできた西園寺先輩が、陳列棚からサインペンを一本取って、レジのカウンターに小銭を置いた。そして、そのサインペンを俺に差し出してきている。
「何だかよく解らないけど、使う?」
「あ、ありがとうございます」
 俺は素早くそれを受け取り、すぐに包装を破ってサインペンのキャップを取った。そして、幽霊の足元に膝をついてつやつやしている床にペン先を走らせた。インクは水性らしく、僅かにかすれ気味になるけれど、それでもさしたる問題はない。
 描ければいいのだ。
 このくらいの魔術なら、不完全な魔法陣でも何とかなる……と信じたい。

「ちょっと!」
 周りが騒々しくなったけれど、俺は気にせず円を描く。
 二重の円。そして、こちらの世界では存在しない言語、記号。
 完成が近づくにつれて青白く輝き始める魔法陣。

 そして、その中央に立っていた幽霊がゆっくりと実体化していくのを見上げた。透き通っていた身体がじわじわと色づき、頭部から足元までその場に現れる。彼の足元にいたシロの姿も。

「何、これ」
 女性が悲鳴じみた声を上げた。
 男性二人も顔色を変え、後ずさる。

「これはすごいね。霊感なんてない僕にも見えるよ」
 西園寺先輩が感心したように声を上げ、まじまじと『彼』を見つめている。その横にいる榊原先輩は俺のことを見つめている。
「……トール」
「はい」
「お前、凄いな」
「どーもどーも」
 そう言って俺が照れ隠しにわざとらしくニヤリと笑って見せている間に、幽霊と大人三人の間には色々な変化が見られた。

「お父さん!?」
 女性がそう叫んで、幽霊へと一歩近づいた。信じられないと言いたげに口を押え、そしてその目に恐怖の色を浮かべた。それは単純な恐怖という感情ではない。
 何となく俺には解った。
 失う恐怖、だ。
 いや、失ったと自覚した瞬間の恐怖。
「嘘、でしょ? 病院……病院は」
 彼女の視線が宙を泳ぎ、そのままどこか心もとないような足取りで自動ドアへと向かおうとした。その時、幽霊が口を開いた。

「すまんな、由紀子。面倒をかける」
 幽霊のその声を受けて、その女性――由紀子さんはぎこちなく足をとめた。今にも涙がこぼれそうな双眸が幽霊のほうへ向けられた。
「お前たちにはがっかりしたぞ」
 その言葉は男性二人へと向けられたもの。幽霊の表情は僅かに怒りのようなものが浮かび始めていた。
 男性二人は最初、ぽかんとしていたと思う。
 目の前にいる幽霊――自分たちの父親の姿を見つめたまま身体を強張らせ、口を開けたままそこにいる。
「心配してくれとは言わんが……、いや、少しはして欲しかったが、まさかいきなり金がどうこう言いだすとは思わなかった」
「父さん」
「嘘だろ……」

 幽霊の顔がゆっくりと強張り、男性二人を見つめる視線が厳しくなっていく。
「確かに、宝くじに当たったことは自慢した。そりゃあ、ことあるごとに自慢した。しかしな、俺がぶっ倒れて一番にそれを言い出したのはどうかと思うんだが」
「そうだよ」
 由紀子さんが兄二人を睨みつけて言った。「それどころじゃないのに。それより重要なのは」
「だいたい、もう金はないんだ」
「え、そっち?」
 由紀子さんが奇妙な目つきで父親を見やる。
「普通、お前たちの足りない頭で考えてみても解るもんだろう。子供三人を私立の高校に入れ、さらに大学に通わせ、そのうちの一人は専門学校だ何だと色々言いだして、学費を全部出した後に俺はトラクターを買ったり車を買ったりしてるんだ。残るわけがないだろ!」
 幽霊は青白く輝く魔法陣の上、酷く暑苦しい口調で熱弁していた。

 とりあえず、俺たちは蚊帳の外。
 俺は思わず由紀子さんの腕の中にいるモモを見た。怪我はなさそうだ、と気づいてほっとする。そしてやっと頭の中が冷えてきた気がした。
 モモも幽霊が見えるらしく、鼻をピスピス鳴らしながら身を乗り出していた。少しだけ尻尾がぱたぱた揺れるのが可愛い。
 俺の隣では西園寺先輩が興味深そうに彼らに視線を送っていて、榊原先輩は困ったように頭を掻いていた。

「もうない金のことでお前たちが騒いでるのを見てたらな、何だかどうでもよくなってきてしまってなあ」
 そこで、幽霊が声のトーンを僅かに落とした。「本当、育てかたを間違ったと思ったんだよ。こんなバカ息子二人を育てたことにな、自己嫌悪に陥ってな、気づいたら色々昔のことを思い出してた。そして、人生をやり直せたらどんなにいいかなあ、と思った」
 そして、少しだけ身を屈めてシロの頭を撫でる。
 シロは穏やかな表情で幽霊を見上げる。笑っているような顔。幽霊はその顔を見下ろして口元を緩めた。
「……そんなことを考えたせいか、変なことが起きたなあ。何だか知らんが、一瞬だけ若返ったしなあ」
 そう言って、幽霊は俺たちに視線を投げてきた。
 俺たちも無言で幽霊を見つめ返した。とても何か言えるような雰囲気じゃなかった。

「でもやっぱり、やり直しなんてできない。そう実感した。もう、何もかも遅い、そう納得しただけだった」
 幽霊はやがて悲しそうにそう呟くと、もう一度シロを撫でた。
 シロを優しく見下ろしながら、彼は目を細めた。
「迎えにきてくれてありがとな、シロ。俺が初めて飼った犬だ。一緒に散歩して、一緒に遊んで、俺より先に死んだ。でも、迎えにきてくれた」

 そこで、シロが小さく吠えた。優しい吠えかただった。

「シロでさえ、こんなに心配してくれる」
 幽霊が寂しげに笑う。
 そして、息子二人に顔を向ける。
「お前たちは? 少しも心配、してくれないんだな。そんなに俺が邪魔だったか。金しか欲しくなかったのか」

「ごめん」
「父さん、ごめん」
 二人が気まずそうに目を伏せた。
 その表情が、さっきまでとは違って見えた。由紀子さんと言い争っていた時とは全然違う。彼らの横顔に見え隠れする後ろめたさという感情。

「君たちは家族と上手くいってるのか」
 やがて、幽霊は息子二人から目をそらし、困ったような表情でそう訊いてきた。
「え、はい」
 俺は急にそう訊かれて戸惑ったけれど、すぐに頷いた。
「君たちは?」
 幽霊の視線が俺からそれて、西園寺先輩と榊原先輩に向けられた。
「……母親とは上手くいってます」
 気まずそうな榊原先輩の声。それに続く西園寺先輩の声も似たようなものだった。
「うちも、ですね。母親とは上手く……」

「そうか」
 幽霊は少しだけ悲しそうな目で隣の二人を見つめた。

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