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血は流れる
「はっきりさせたいというなら、君の父親に聞きなさい。君の父が、この世界の破滅を呼ぼうとした。次は君か?」
 静かに響く声は、落胆にも似た感情が混じっていた。「我が妻の犠牲の上に、今の平和がある。たくさんの人間が死に、たくさんの血が流れる未来を妻は防いだ。それを壊す権利を私は誰にも与えはしない」
 大広間は静まり返っていて、誰もが陛下の言葉に聞き入っていた。
 多分この時には、この国の人間は陛下の自信に満ちた様子に感じ入っていたし、アストールに対しては恐怖など感じていなかっただろう。
 しかし、それは簡単に崩れていく。
「確かに父は失敗した」
 アストールは笑いながら言う。「だから、次は成功しなくては。どんな犠牲を払っても」
 ふと、アストールの目が細められた。
 気づけば、陛下の近くにイリアスが歩み寄ってきていた。その表情は硬く、アストールを鋭い目で見つめながら。
「兄上、今なら間に合います。国へお戻りを」
「兄と呼ぶな、妾腹が」
 アストールが嫌悪を露わにした言葉を投げつける。イリアスの表情は動かない。
 アストールの声だけが大きく辺りに響く。
「さすが、下賤な血が混ざった人間は違うな。国を裏切って、他国に通じていたか」
「裏切りなど」
「まあいい、どうせお前も邪魔だった。好都合だ」
「……だと思っていました」
 イリアスの瞳が冷えた。

 一触即発、といった雰囲気。
 僕は突然、後ろから誰かに腕を掴まれて、声を上げそうになった。
 慌てて振り向くと、そこには真っ青な顔色のクリスティアナ様が立っていた。そして、僕の左腕にしがみつきながら震えている。
「……大丈夫ですか?」
 消えそうなほどに小さな声で囁くと、彼女は力なく首を横に振った。
 どうしたらいいのだろう。
 僕はそっと辺りを観察した。
 ジーンは陛下のそば。
 イリアスもそうだ。その後ろにラース。
 騎士団の人間は大広間の中にはいない。
 ジュリエッタ様とキャロライン様は、大広間の壁際で召使いの女性たちと一緒に固まって立っている。
 そして、気がつけばアストールと一緒にいた少年が僕のそばに立っていた。
「……何?」
 心臓が跳ねる。
 クリスティアナ様を後ろに庇いながら後ずさろうとした時、彼が口を開いた。
「お前、貴族じゃないな。騎士団の人間か」
 彼の声は僅かに高く、かすれていた。否定しようと口を開きかけた時、僕は後ろからクリスティアナ様に思い切り腕を引かれた。
 途端、目の前を横切った何か。
 僕は胸元を咄嗟に抑え、隠し持っていた短剣を素早く抜いて構えた。
 胸元が熱いが、そっちを見る余裕などない。
「さっきもお前は邪魔をした」
 少年が素早い動きでこちらに駆けてくる。
 その手には、僕のものよりも僅かに長い短剣。
 まずい、と思った。
 早い。
 そばにいた人間も異変に気づき、小さな悲鳴を上げている。
 少年の身体が一瞬、横へ。彼の手の動きを目で追おうとしたが、間に合わなかった。
 肩から胸にかけて鋭い痛みが走る。
「シリウス!」 
 クリスティアナ様が叫んだのが聞こえた。
「下がって!」
 僕はクリスティアナ様を安全な場所に逃がさなくては、と彼女を振り払う。
 視線は少年に向けたままだったけれど、彼が間合いを一気に詰めてきた時、僕は何もすることができなかった。
 目の前に迫った刃。
 そして、それが鋭い金属音と共に弾かれる。
 誰かの背中が目の前にあった。
 血に染まった長剣を構えた父の背中。
「厄介なことになってるなあ」
 父さんは少年を見つめたまま、苦笑していた。
 あまりにもそれが緊張感とは程遠く、僕はしばらく声が出せなかった。
 ただ、クリスティアナ様が僕に近寄り、ドレスの裾を裂いて、その端切れを僕の胸元に押し付けてきて、我に返る。
「ダメです」
 あっという間に真っ赤に染まる端切れ。少年に斬られた場所から、血が吹き出している。それは自分でも驚くくらいに。
「汚れます」
 慌てて僕は彼女の手を取ったが、彼女が泣きそうな目で僕を見つめるので、それ以上強く拒むことができなかった。

 やがて、少年が忌々しそうに舌打ちするのが聞こえる。
「ジェイド、雑魚に構うな」
 離れた場所から、アストールがつまらなそうに声を上げる。
 すると、少年は素早く身を引いてアストールのほうへ移動した。
「どうも、早く片付けたほうがいいらしいな」
 アストールは陛下とジーンを見つめたまま、頭を掻く。
 僕が父に声をかける前に、父は剣を手に提げたまま陛下のほうへ歩み寄り、何事か話をしている。陛下も真剣な表情でそれを聞き、頷いて見せる。
「どうやら外は囲まれているらしい」
 陛下はやがてそう言って、アストールを睨みつける。「準備万端といったところか?」
「そういうことだ」
 アストールはニヤリと笑ったが、すぐにその視線をジーンに向けた。「だが、残念ながらそこの魔術師が邪魔でね。城の周りに危険人物を跳ね除ける術をかけている。騎士団の連中も邪魔だ」
「じゃあ、おとなしく引きなさい」
 ジーンが冷ややかに言う。そして、彼はその右手を上げた。
 何かが擦れるような、変な音がする。
 気がつけば、テーブルの上に置いてあった水差しから、水だけがシュルシュルと音を立てて宙に上がっていた。
 それはやがて細い一本の剣のようになり、ジーンの手のひらの上で奇妙な光を放っていた。
「下手なことをしたら、あなたの喉に穴が空くわね。確かめてみましょうか」
 嫣然と微笑む魔術師。
 アストールの表情がさらに悪意の塊のようなものになる。笑みは消え、そこにあるのは侮蔑のようなもの。
「私はお前のような奴が嫌いでね」
 アストールは低く言う。「その綺麗な顔が自慢か?」
「当たり前でしょ」
 ジーンは唇を歪める。「私から美貌を取ったら何も残らないわよ」
「ならばその顔の皮を剥いでやろう。二目と見られぬ顔になるがいい」
 それを聞いて、ジーンの眦が釣り上げられた。
 そして、アストールが鋭く叫ぶ。
「ジェイド!」
 途端、名前を呼ばれた少年が素早く床を蹴り、誰かの悲鳴が響いた。

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あきゅろす。
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