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◇◇◇
「な…っ?!何でてめぇが…っんぐっ」
「シー…静かにしてろって。見られてぇのかよ」
目の前に、至近距離に、よく知る俺の嫌いなアイツがいる。
何故?どうやって入った?アリスの森の襲撃かよ。
いや、違う。こいつは俺とやり合う時、卑怯な手はあまり使いたがらねぇ。
俺を拘束する、奴の重みが生々しい。
「俺を殺りにきたのかよ。チェシャ猫の命令か」
喉がひきつる。
だとしたら、この状況の俺は確実に殺される。
命の危険を感じてがむしゃらに暴れる俺に、ワンは顔を歪め俺を拘束する腕に力を込めた。
「もしそんな事になったら、お前と心中してやるよ」
「…訳わかんねぇ事言うなよ」
ワンの表情が、纏う空気が、普段の奴のそれとは全く違って。
俺は、ここへ来た目的を聞く事を躊躇う。
男の手にしては形の整ったワンの指先が、ゆっくりと俺の顔に降ろされる。
殴られると思い、反射的に目を閉じ体を強張らせる。
しかし、降って来たのは拳ではなくて。
顎に触れるワンの指先の感触に気をとられていた瞬間、頬に何かが触れた。
まさか、何で、あり得ない。
一瞬にして、俺の体は氷ついた。
ワンが俺にそう言う意味で触れてくる可能性を考えた事がなかった俺は、状況についていけなかった。
今こいつは俺の顔に、キスしたのか?
「っ…やめろっ…何考えてんだよ!!」
首筋や顔、耳に唇を合わせてくるワンに、俺は怒りよりも恐怖に飲み込まれる。
奴の甘い香水の匂いが、怖がって動いてくれない自分の体が、俺を惨めにした。
嫌だ。
触るな。
嫌だ。
「……泣くなってシン。俺は別にお前を泣かしたい訳じゃない。
これ以上、どう優しくしていいかわかんねぇよ」
ワンはため息をつくと、何かを諦めるように唇を噛み締めた。
「何…っ」
「こんなの、もう二度としねぇからちょっと黙れよ」
ワンはそう言って、右手で俺の目元を覆った。
「…俺の事、少しの間ハイジだと思えよ。それならお前嫌じゃねぇだろ」
嘲笑うように吐き出されたワンの声には怒りが混ざっている。
「…どうすればいいんだよ。こうでもしねぇと、俺は優しくお前に触れられねぇってのに」
「俺は大概お前に歩み寄ってるぜ?お前が困らねぇように動いてやってる。
なのに、お前が俺に与えるのは拒絶と傷みだけだ。
マジでイラつくぜ」
怒りに震えるその声が、俺の恐怖心をぬぐい去る。
泣いているのは寧ろ。
「なぁ、何でお前ノアの箱船の囚人なんだよ。何でよりにもよって、No.2なんかやってんだよ」
「俺はいい、どうなっても。けどお前が…俺がお前を好きだと、お前が殺される。何なんだよ、何処の箱入り娘だよ。笑えねぇよ」
もて余す感情をぶつけるように、言葉をぶつけてくるワンに、俺はただただ茫然とする事しか出来なかった。
「…これは夢だシン。夢の中なら俺がお前に何をしても目が覚めれば無かった事になる。だから忘れろよ」
嫌悪感はもう無かった。
ワンの感情に触れる度に、言い様のない居心地の悪さと、熱が沸き上がってくる。
だって、要するにこいつは。
今ワンがどんな顔をしているのか見たい。
そう思いワンの手を退かそうとする。
「…お前を俺の房に閉じ込めて、ベッドに縫い付けたいぜ。そうすればお前を俺だけの物に出来るのに」
物騒な事を言うワンに反論しようと思ったが、唇を塞がれそれは叶わなかった。
明るくなって見えたのは、泣きそうな顔で俺に口づける、妙な色気を放つ中性的なワンの顔だった。
唇に触れるワンの唇や、吐き出される吐息が震えていて。
ワンの緊張が俺に伝染する。
俺は目を離す事が出来なかった。
「…嫌なら目くらい閉じろよ」
ワンはそう言って顔を歪ませると、俺を突き放した。
俺をベッドに沈め、立ち上がると、ワンは出て行こうとする。
俺は咄嗟にワンの腕を掴んだ。
「お前…」
聞きたいことは山程ある。それなのに、俺の口は動いてくれなかった。
何も言わない俺にワンが苛立つのがわかった。
ワンは俺の腕を振り払うと、俺を鼻で笑った。
「本気にしてんじゃねぇよ。冗談に決まってんだろ?これだから童貞は」
「何だよそのリアクション、萎えるぜ」
「…ある訳ねぇだろ、そんなこと」
そう言い捨てワンは立ち去った。
だったら何で。
お前は何に苛立って、傷ついたんだよ。
熱くなったあの瞳と、震える唇に心を揺さぶられたなんて、死んでも誰にも言える訳がなかった。
ーendー
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