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伊勢物語
第九段 東下り
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「で、お前は何をしているんだ?」

行平は溜め息混じりに業平を見つめる。
視線の先の業平はいそいそと身支度をしている。
その装いは、単に近くへ遊びに行くにはそぐわない旅装束である。

「あ、兄上、私ここを出ていくから!」

業平はその端正な顔を楽しげに綻ばせ、爽やかに言い切った。
普段から業平の唐突で突飛な言動には慣れている行平であるが、さすがに絶句する。

「最近何だか京に居場所を見つけられなくて、あまりに辛いから東の方へ下ることにします」

頬に手をあて悲しげな表情をしてみせる。
と思いきや、一転朗らかな笑顔でヒラヒラと手を振った。

「というわけで、兄上、行って参ります!」

暫く呆然と成り行きを眺めていた行平が我を取り戻した頃には、業平の乗った牛車は小路の果てに微かにも見えない程遠ざかっていた。






さて業平は、牛の歩みでのたのたと幾日も旅をし、三河の国八橋という地をうろついていた。

「やあ、美しいことだ」

業平は旅の目的も忘れ、目前に広がる景色に感嘆する。
川は支流から幾筋にも別れ、それぞれに架けられた八つの橋を見渡すことができる。

「これらの八つの橋からこの地は八橋と名付けられたのですよ」
「なるほど、よい名ですね」

案内の者に言われてもう一度目を上げる。
日の光が水面に照り映えてとても趣深い。
ふと足下を見ると、かきつばたの花がこれまた美しく咲いている。
業平は腰を下ろしてその花を愛でた。

「かきつばたがたいそう面白く咲いていることですね」

その雅やかで洗練された貴公子ぶりに、案内の者をはじめ辺りにいる者は皆引きつけられた。
その視線に気付いた業平は、くすりと微笑を浮かべてみせる。

「それでは期待にお応えして、和歌でも詠んでみましょうか。そうですね、この""かきつばた"を句の頭に置いて作ってみせますよ」

業平はどこから出したのか筆と薄様を携え、少し思案したかと思うとすぐにさらさらと書き付ける。
辺りの人々はその様子を眺めてひどく感心した様子である。

「こんな感じですかね」

業平は筆を置くと、やわらかな、それでいてよく響く声で歌を読み上げた。


 からころも着つつなれにしつましあれば
  はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ


衣を毎日着てならすように慣れ親しんだ妻を京に残してきているので、はるばる遠くまで旅をしてきてしまったことを悲しく思うのです。


この様な歌を詠んでみると、次々と京に残してきた女君の姿が瞼の裏に浮かび、目頭が熱くなる。
そして当然ながら兄行平のことは頭から完全に抜け落ちている。
それでも、人々は切ない和歌にのせられた想いと貴公子の流す美しい涙に感動して、乾米をふやけさせる程涙を流す始末であった。

八橋の人々に涙と思い出を与え、業平の旅はまだまだ続く。





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