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その日の深夜。

微かな衣擦れの音に平助は目を薄く開いた。
盗人でも入ったのかもしれない、と寝起きのぼんやりとした頭でその音の主を瞳だけ動かして探る。
幸いなことにそれは盗人でも何でもなかった。単に母が起き出しただけのことだったのである。
一旦安心はしたものの、すぐに頭に疑問が浮かぶ。

(母さま、こんな夜遅くに何をしているのかな……?)

平助に一部始終を見られているとも知らず、着替えを終えた母は化粧を施し始めた。このような夜更けに、である。
丹念に白粉を塗り付け紅をひく。
母は端正な顔立ちで大変化粧映えがする。その様はそこらの男が一目で惚れてしまいそうなほどである。
初めて見る母の姿に驚くとともにさらに疑問が大きくなっていく。

身支度を整えた母は物音を立てぬよう細心の注意を払って玄関に向かった。微かに床が軋む音だけが辺りに響く。
母は静かに戸を開け、やはり静かに閉める。足音が次第に遠ざかり、やがて辺りは静寂に包まれた。
母が戸から離れたのを十分に確認して平助は布団から身を起こした。

(……追いかければわかるよね)

深夜に家を抜け出して母の後をつけることに一抹の罪悪感を感じつつも、平助は戸を開けて静かに駆け出した。

夜の町はどこか人を昂揚させる。
このような状況であるにもかかわらず平助は弾むような足取りで、しかし母に気付かれぬよう注意深く走った。
母はゆっくりと歩を進める。その足は川沿いの道へと向かう。
虫の音も静まり返った夏の夜の空気の中、平助は懸命に足音を殺して母の後をつけた。

どこまで行くのだろうかと平助が不安になりはじめた頃、ようやく母の足が止まった。
何の変哲もない暗い川沿いの道端である。このような夜遅くにここで何をすると言うのだろうかと平助は妙に不安に駆られた。



母の足が止まり平助が息を潜めて隠れはじめて暫くの後、遠くから砂利を踏み締める音が聞こえた。灯が上下に動きながら近付いてくる。寄ってきたその姿はきっちりと髷を結い腰に二本差した三四十ほどの壮年の侍である。
物陰に潜んでいた母は静かに道へ歩み出ると、その侍の前に立った。

「もし、そこのお武家様……」

普段の母よりも小さく弱々しい声、男に媚びを売るような女の声である。
侍は下卑た笑いを浮かべ母の腕を掴んだ。その時母の顔が痛みのためか恥辱のためか、少し歪んだ。

平助は咄嗟に男と母の間に体を飛び込ませた。二人が一様に驚いた顔をするが歯牙にもかけない。

「母さまに触るな!」
「平助!」

侍はたじろいだ後逃げるように去っていった。
平助は怒りに顔を紅く染める。対して母は顔面蒼白である。

「母さま、大丈夫?」

平助はそう尋ねるが、母は眉根を寄せて黙ったきりである。

平助が訝しげに首を傾げ母の顔を見上げると、母は苦々しげな表情を浮かべたまま「そろそろ帰りましょう」と呟いた。

平助はただ素直に頷くことしかできなかった。




人っ子一人いない深夜の町を母と二人並んで歩く。
月明りが二人の影法師を長く伸ばしている。

母は何も言わないし、平助も口を動かすことができない。沈黙ばかりがこの場の空気をひどく重いものにしていた。


「今日のことは忘れてもう寝なさい」

素直に布団に潜り込んだ平助の頭を母が優しく撫でる。
母の白粉の香りがふわりと漂ってくる。あまりに気持ちがよくて自然と眠りに誘われる。

「ねえ、母さま……」
「なあに、平助?」
「……何で……」

撫でる手を止めずに母が応える。
何かを言いかけた平助の半分以上閉じていた瞼が完全に合わさると、小さな寝息が聞こえ出した。



「……ごめんね。でも、貴方のためなのよ、平助……」

平助はまどろみの中で母の言葉を聞いた。

母のあれが自分のせいだと言うのなら、いなくなってしまった方がいいのだろうか。


母の声が湿ったものになっていく。

以前、かなり昔に母がこのように泣いたことがあった気がする。


もう悲しませないよう、強くなりたい。

平助はそう誓いながら眠りの底へ落ちていった。




20080521 彩綺



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