短篇集 『愚か者』 初めて君を見たのは、物置の奥深く。 薄暗いその片隅に閉じ込められて悲しそうな顔で僕を見ていた…。 「君…どうしてここにいるの…?」 何とか絞り出した、微かな声で聞いてみたが、余程厚いガラスなのか相手の声は聞こえない。 何か言っている筈なのに…。 ここの御主人は厳しい人で、少しのミスも許さず粗相をする度に黒くしなった鞭で気の済むまで叩き続ける。 僕たちはいつも傷だらけでボロボロの服で… だけどその日、僕の運命が変わった。 ずるずると長く手入れもされていない髪を引きずりながら、隅に埃が落ちていた所為で叩かれ続けていた僕は、目の前に散らばったたくさんの髪の毛をただぼんやりと眺めていた。 どうやら、御主人に髪を切られたらしい。 「鬱陶しい」とか「目障り」とか…そんな声が聞こえる気がする。 僕の髪に触れた所為で汚れてしまった手袋を投げ捨てるのを横目で見ながら、叩かれ過ぎて熱くなった背中に神経が集中していくのを感じていた。 …掃除しなくちゃ。 例え御主人が汚した床でも、それは僕の所為。 傷だらけの手で必死にかき集めていると、何を思ったのか御主人が煤で汚した僕の顔を覗き込んだ。 「…へぇ。」 何が、『へぇ。』なのか…。 自分の手が汚れるのも気にせずに僕を立たせると、下卑た笑みを浮かべながら舐めるように僕を見回している。 その瞬間、とうとう自分の番が回ってきたと目を堅く瞑った。 体を洗われ、髪を整えられて、触った事の無い綺麗な服に袖を通す。 これから、何が起こるのか想像は付いている。 きっと、今までの人たちと同じように慰み者にされるに決まっている…。 御主人の部屋の前に立ち、息を飲んだ。 この扉を開けてしまえば最後。もう、元には戻れないだろうという確信はあった。 故に涙を流し、震えの止まらない体を抱き締めて運命を呪った…。 はぁ…はぁ… 息がきれる…。 僕は何をしているんだろう。 こんな事、無駄だと充分に分かっている筈なのに! 息がきれようが転びようが構わない。 無意識の内を僕は館内を走り回っていた。 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ! あのおぞましく脂ぎった手で触れられるのも! ましてや体を委ねるなんて!! 涙が頬を伝い、嗚咽を噛み締めて…辿り着いたのは、既に使われていない物置だった。 蜘蛛の巣だらけ埃だらけの部屋に足を踏み入れ、一番奥にしゃがみ込んで時が過ぎるのをひたすら待った。 夜になったら、闇に紛れて逃げ出せるかもしれない。期待は薄く頼りないものだったが、儚い最後の抵抗だった。 カツン…カツン…ギィー… 夜を待たずに物置の扉が錆び付いた音を立てた。 「…逃げられると思ったのか?」 御主人だった。 いくら隅に体を隠しても埃だらけの床にくっきりと残った足跡が僕の存在を教えている。 …もう、ダメだ。 観念して立ち上がると、丁度僕の隣にかけてあった布が外れ、床の埃を舞い上がらせた。 これは、どういう事だろう…。 目の前に白い肌で薔薇色の唇をした彼女が立っていた。 ガラス越しに僕を見つめる彼女は、泣きはらした目で何かを訴えている気がした。 「君…どうしてここにいるの…?」 微かな声で訪ねてみたが、ガラスが厚いのか何も聞こえない。 代わりに 「ハッ。…こりゃあいい。」 馬鹿にしたような笑いを浮かべ御主人が僕を見ている。 もしかしたら、彼女も僕と同じ立場にいるのかもしれない。 「…君も僕と、一緒…?」 「…そうだよ。」 御主人の声がした。 「お前が逃げたら、こいつが身代わりになる。」 今にも泣き出しそうな彼女を、僕は守りたいと思った…。 「泣かないで?…僕が守るから…」 涙が出た。 彼女も、泣いていた。 白く美しい彼女を汚したくない。 そんな一時の憐れみで、未来を決めてしまった自分は愚か者だろう。 しかし、もう逃げられないと観念した今、誰かの為だと理由を付けなければ身動きが取れそうにない。 御主人の高笑いが聞こえる…。 音を立てて締まっていく扉の隙間から、どこかに立ち去る彼女の悲しそうな瞳を最後まで見送った…。 見えなくなるまで…。 ずっと…。 end。 2008/9/24 [戻る] |