[携帯モード] [URL送信]
蔵の中 10



季節は巡る。
彼と出会った秋の初め。
彼と歩いた冬。
彼から逃げた春から一年。
そして、彼と共に過ごしたあの夏。
一緒に過ごせたのはたったの一回りだ。


学校を卒業し、父の事業を手伝うようになった。
東京でも、もちろん家に帰ってからも俺は時間を見つけては彼を探した。専門の者に依頼をしたこともある。何度も。
だけど彼は見つからなかった。

父に頼んで土蔵は取り壊さず、そのままにしてもらっている。
補強と修理を施し、すすを掃除して、元のように綺麗に漆喰を塗った。
時折、俺は蔵へと足を運ぶ。
主を失った蔵は物寂しく、以前のような穏やかな空気など微塵も感じない。
蒸し暑い夏も、凍えるように寒い冬も、彼が恋しい夜はいつも蔵で時を過ごした。
思い出せる限りの書物を再び買い集め、眠れないときはそれらを読んだ。

そして其処此処に現れるクラウドの幻影を前に、俺の心は過去へと飛ぶ。
目の前にあるかのように映し出される彼の姿に何度も手を伸ばし、そしてもう触れられないことに何度も絶望した。
彼と交わした言葉を何度も繰り返し思い出しては、激しく襲う痛みに独り、耐えた。




彼を失った年から、もうすぐ両手では数え切れなくなる頃。
とある人物が訪ねて来た。
新しく始める事業の取引の為、遠方から来たという。
父は数年前に体を壊し、療養生活を余儀なくされて、俺は事業の全てを引き継いでいた。
赤いマントに黒服の胡散臭い男は、俺に目線で会釈をしてから言った。


「私はクラウドの使いで来た」


客間で応対した俺は、一瞬彼が何を言っているのかわからなかった。
そして片時も忘れたことの無かった名前を耳にして、礼節もわきまえず食ってかかるように「彼を知っているのか」と詰め寄った。


「スコールには本当に世話になったと。受けた恩を、やっと返せるときが来たと言っていた」


テーブルの上に分厚い白い封筒を差し出す。
中身は見当がついた。


「金など要らない。彼は今何処に居る!?」
「彼は貿易商を興し、外国へ発つことになった。その前にこちらの方々に礼をしたいと言っている」


生きていた。
生きていたんだ!
その事実に、俺は涙がこぼれそうになるほど喜んだ。
この数年、胸に巣食った病のように常に思考の片隅にあった不安の闇が消え去った気がした。
それと同時に、体の深奥から魂の叫びのように湧き上がる激しい気持ち。


「お願いだ。彼が、クラウドが今何処に居るのか教えてくれ!」


彼に会いたい。


「…残念だが、もう屋敷は引き払った。今の所在はあって無いようなものだ」


つまり今日明日にも日本を発つということか。


「何処でだって構わない…一瞬でも会うことが出来れば。頼む。このとおりだ」
「悪いが、その件は彼から聞いていない」
「…彼は、クラウドは会いたくない、と?」
「知らん」


そんな。
彼は確かに生きているというのに。
顔を見ることすら許されないのか。
何故だ。
あの夏に確かめ合った熱はもう、冷えてしまったのか。…とっくに、忘れてしまったというのだろうか。


失礼する、と言って使いの男が部屋を出て行く。
声をかけようとして、引き止められなかった。
クラウド自身が俺に会うことを拒絶しているのなら…。
カラカラと玄関の扉が閉まる音がした。

ソファに腰掛けたまま、項垂れて動けない俺はテーブルの上の封筒を見つめた。
これがクラウドの出した答えか。
これが、彼の言葉なのか。
こんなものが!
胸の中を掻き乱して空っぽにしてしまうような空虚に支配される。
立ち上がることも出来ない。
意思を失った緩慢な腕が封筒に触れた。
途端、走馬灯のように脳裏を過ぎるのは。
白く細い指を唇に添え、僅かに口角を上げて微笑む彼の。


封筒を握り締め、靴も履かず玄関を飛び出した。
道を左右に見渡せば、丁度曲がり角に黒い車があった。
確信も無いまま俺は走って追いかけた。追いつくかどうかなど考えず、ひたすらに。

角を曲がると車は脇に止まっていた。
後部座席のドアがゆっくり開く。
俺は、金縛りにあったように足が凍って動かない。
見覚えのある金の髪の男が降りて来た。
身に着けているのは記憶にあった白い着物ではなく、シャツに黒いズボンという格好だったが、それは確かにクラウドだった。


「久しぶり」


低く静かな声。
ああ、間違いなく彼だ。
自分が求め続けた人だ。


「クラウド…」


名前を呼ぶのが精一杯で、俺は棒のように立っていた。
昔と変わらない、無表情な顔で彼は言った。


「会わないつもりだった。だけどあんたの姿が見えたから」


思わず降りてしまった、と言葉を区切る。
沈黙が二人の間に立ちふさがり、すぐ近くに居るのに彼を遠く感じた。

突然の失踪。
空白の年月。
こころの行方。

何から話して良いのか、俺は途方に暮れた。
困惑しながら、だけど彼に触れて確かめたいという気持ちが先走り、つい伸ばしてしまいそうになる手を押し止める。


「俺が火をつけたんだ」


お互いを隔てていた無言の幕を裂くように、クラウドが口を開く。


「俺が、全部燃やした」
「……どうして…あんな」
「怖くなったんだ」


真っ直ぐに俺を射る瞳。
視線を合わせたまま、静かに彼は話し出す。


「スコール覚えているか?花火の夜」
「覚えている。綺麗だったな」
「ああ…とても。あの日、あんたは俺を好きだと言った」
「ああ」


そうだ。それは今も変わらない。
忘れたいと思ったこともあった。その方が楽になれると。
だけど俺の意識の深層にまで深く根付いた想いは、どうしても消えなかった。
深奥から生まれる熱は、常に彼だけを求めていた。


「…あんたが俺をどういう目で見ていたか…きっと気付いていたんだ。
そして俺はあんたの若さに付け込んだ」


大きな瞳を伏せて、彼は俺から目を逸らした。
罪を悔い、懺悔するかのように。


「俺は小さな頃から母と父の営みを目にしていた。今思えば、常軌を逸した空間だったんだろう」


あの狭い蔵の中、夜な夜な訪ねてくる男を迎える母親。
もしかしたら彼の一番古い記憶がそれなのかもしれない。


「いくら本を読んでも、文面で恋人たちの様子を知っても、俺にはわからなかった。何が人をそうさせるのか」


父を失い、自分まで失ってしまった母。後を追うように亡くなった母。
一体彼女の身の内に何が起こったのか。


「そして、あんたが現れた」


知りたかったんだ。
生身の人間の内に宿る赤い炎を。
自分でなく、他者を求めるということを。


「スコールと夜を共にして…あんたが俺の心の中深くに入ってくるにつれて、言い様のない不安に悩まされた」


小さく消え入りそうな声が、通りに吹く風に吹き飛ばされそうになりながら俺の耳に届く。
初めて明らかになる彼の心だった。
問いかけに頷くのではなく、愛撫に応えるのでもなく。
自らの胸を開いて見せるような彼の心の内だった。


「あんたに好きだと言われて、気が付いた。俺は母の影に怯えていたんだ」


泳がせていた視線を再び俺に据えて、クラウドの吐露は続く。


「あんたを褥へと招き、受け入れたのは他でもない…俺は自分の中に母の存在を求めていた。
そしてスコール、あんたには父の姿を重ね合わせていたんだ」


唯一、目の当たりにしたことのある、人と人が愛し合う姿は父と母だった。
彼らの如く、炎に包まれるように愛し合うことが出来るなら、それを求めることは罪なのか。


「…花火の夜、あんたから『好き』という言葉を聞いて、俺は気を失いそうなほど嬉しかった」


ザ、と踏み出す音がした。
いつの間にか俺は、無意識に彼の方へと歩みを進めていた。


「東京へ帰るあんたを見送った後、途端に苦悩が襲ってきた。
もし、このままスコールを失ったら、俺はどうなってしまうのだろう。
俺も、もしかしたら…」


母のようになってしまうかもしれない。
いつの間にか二人の距離はほとんど無くなり、俺はクラウドのすぐ前に立っていた。


「すまなかった。どうしようもなかった。
怖かったんだ。あんたの優しさも、俺の中の狂気も。何もかも」


彼は俯いてしまい、前髪で表情が見えなくなってしまった。
噛み締められた唇は、僅かに震えているようだ。


「……俺もあんたから逃げたよ。18の春に」


クラウドの本当の気持ちを確かめることも出来ず、自分の正直な気持ちを伝えることも出来なかった、幼い自分。
幼稚な自己を振り切るように、彼のことも考えず、何もかもから目を逸らして家を飛び出した。


「あんたは俺を待っていてくれたのに。あの蔵の中で、いつだって」
「違う。俺はスコールの気持ちを利用したんだ。あんたを誑かして――」


腕を引き寄せ、その身体を胸に収めてしまうとクラウドは黙った。


「それなら俺も同じだ。生まれて初めての触れ合いに、我を忘れた」
「だから。それは、すべて俺が仕組んだことだ」
「じゃあ、何故あんたは此処に居る?」


返事が途切れた。
戸惑いが伝わる。
少し体を離すと、目を見開いて考え込む彼の顔があった。


「何故、って…?」
「もう一度言うぞ、クラウド。
会いに来てくれてありがとう。俺はあの頃と変わらず、あんたのことが好きだ」


打ち抜かれたように固まって、硬直した指が俺の肩に食い込む。
それだけが生きている証のように何度かの瞬きだけを繰り返した後、クラウドはゆっくりと息を吐き出した。


「…俺も。あんたが好きだ」


やっと手に入れた存在を、俺は力を込めて抱き締めた。
薄く、だけど柔さの無い背中の感触は昔と同じで。
急速に溢れ出す情動に、全身を奪われたように衝動的に俺は彼に口付けた。
往来だろうが構わない。薄く乾いた唇の奥に潜む熱を引き出すかのように貪り、舌を差し込んだ。
そしてクラウドも俺に懸命に応えた。
頭の芯がぼやけてしまう位の長く激しい口付けに、クラウドの膝が崩れる。
それを支えて、もう一度胸に抱き直した。


「…あの蔵、以前の通りにしてある」


小さな頭を撫で、金糸の髪を指で梳いて語りかける。


「悪かった。全部燃やしてしまって」
「本もほとんど揃えてある。俺が覚えている範囲だが」
「そうか。…じゃ、ちゃんとあるか確かめないといけないな」


頬を両手で包み、もう一度短い口付けをした。
目元を綻ばせれば彼も、あの控え目な笑顔を返してくれる。
車のエンジンの音が遠のいてゆく。
帰ろうか、と手を差し出すと白い手を重ねてくる。
それをそっと握り、穏やかな夕暮れの迫る道を二人で歩きだした。






〜終〜



[*前へ]
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!