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蔵の中 6




いよいよ週末。
金曜の夜に出発する夜行の切符を取ったのだが、その日は朝から雨が降っていた。
昼過ぎには風も強くなり、夕方には大雨になった。
台風さながらの悪天候だったが汽車は出るとのことで、構わず乗り込んだ。
ところが途中で汽車が立ち往生してしまい、雨脚が弱まるまで車両の中で過ごす羽目になってしまった。

夜中、客電の消えて真っ暗になった車内で、俺はあの蔵の中のことを思い出していた。
蝋燭の頼りない灯りのみで、あとは闇が支配する空間。
あんなに暗く冷たい場所が何処か優しく澄んだ空気を持っていたのは、他でもなくクラウドが居たからだ。
薄い座布団の上に蹲り、口元だけを微かに綻ばせて微笑う彼が居たから。
雨音だけが響く車内で、俺の心は焦がれるばかりだった。


朝には到着する予定が、駅に着いた頃にはもう昼過ぎになっていた。
未だ雨は止んでおらず、懐かしい町並みはどんよりと灰色に淀んでいた。
傘を差して駅を出て、ぐちゃぐちゃの悪路になった道を構わず急ぐ。
下ばかりを見て急いでいたが、ふと植え込みの陰に白いものが見えた。
さして気にせず通り過ぎようとしたのだが、視線をやって俺は驚きのあまり手にした荷物を落としそうになった。


「…クラウド!?」


其処にはすぶ濡れでしゃがみ込む彼が居た。
水を被ったように綺麗な髪は濡れて色を濁らせ、着物も水浸しで肌に吸い付いてしまっている。
見上げる青い瞳は相変わらず大きく、驚いたように見開かれていた。
しばし見詰め合った後、彼が口を開く。


「…今朝の汽車で帰ってくるって。でも、なかなか来ないから…」


子供のような顔で視線をさまよわせ、少し所在なさげに言う。


「そうだ。お父上たちも心配されて…」


彼の言葉はそこで途切れた。
俺は傘も荷物も放って彼を抱き締めた。
水溜りについた膝が冷たかったが、それよりも彼の体のほうが冷たくて胸が痛んだ。
芯まで冷え切ったような背中を強く強く抱いた。僅かに震える指が俺のシャツの裾を引っ張る。

俺は自分を責めた。
幻などであるものか! 彼は確かに存在し、俺を想いながら雨に打たれて待っていたのだ。
夢の中ではなく、俺と彼は出会ったのに。
言葉を交わして微笑み合い、同じ時間を過ごしたというのに。
こんなに放って置くなんて。
俺は自分に優しい記憶だけを選んで、忘れてしまっていたからだ。彼もまた考え、悩み、寂しさを感じる生身の人間であるということを。
俺は馬鹿だ。
自分の弱さから目を背けることに必死で、どうして気付かなかったのだろう。


「…スコール、濡れてしまう」
「あんたの方が濡れている」


濡れて冷たくなった彼を抱き寄せて家路を急いだ。
傘もさほど役に立たず、家に着く頃には二人とも全身びしょ濡れになっていた。

クラウドは裏木戸から入り、俺は久方ぶりに我が家の玄関の戸を開けた。
やはり皆も心配して待っていたのか、俺の声を聞くと姉と女中が手ぬぐいを手に奥から慌しく出てきた。


「おかえりなさい。大丈夫だった?まぁまぁ、こんなに濡れてしまって」
「ただいま戻りました。大丈夫、寒くはないし」
「着替えは用意してあるわ。ちゃんと頭も拭くのよ」


体を拭いて真新しいシャツに袖を通し、父の部屋に挨拶に顔を出した。
それからすぐ、女中に言って着物を出してもらい、蔵へと向かった。
扉を開けて声を掛ける。


「クラウド、だいじょ…」


薄暗い蔵の中に白い肢体が浮かんでいる。濡れた着物を脱ぎ捨てたクラウドが身体を拭いていた。
雨に濡れた白い肌が目の前で惜しげもなく晒されている光景に俺は絶句した。
見てはいけないものを見てしまった、という気して思わず目を逸らした。


「これ、着替えだ」


視線を外したまま手渡せば、「ありがとう」と言って細い腕が伸びてくる。その手の白さにも心臓がバクバクと音を立てる。
衣擦れの音がしばらくして、きゅ、と帯を締める音がした。それで安心して彼の方を向く。
濡れた髪が彼の白い頬に張り付いている。それがやけに艶かしい。
クラウドは俺の不審な様子を別段気にした風もなく、座布団を勧めてくれた。


「学校はどうだ?慣れたか?」
「ああ。とっくに」
「そうか。それは良かった」
「クラウド…約束破って、悪かった」
「約束?」
「本を送るって言っただろう」
「送ると言ってもらえただけで嬉しかったから、いいんだよ」
「…すまない」
「どうして謝る?」
「あんたは良くても俺は良くなかった」


クラウドは不思議そうな顔をして、それなら送ればよかったのに、と言った。


「そうだな。実はちゃんと買ってある。今日も少しだが持ってきたんだ」


それはありがたい、と彼は嬉しそうに目を細めた。
そうしてしばらく話し、夕食後に本を持ってくる約束をして母屋に戻った。


しかし、彼はその本をすぐに読む事は出来なかった。その夜クラウドは高熱を出した。
伝染ってはいけないから部屋に戻れと促されたが、俺は一晩中蔵で彼を看た。こんな蔵の中に独り、放って置けるわけがない。
熱に紅く染まる顔がやけに色っぽくて、その不謹慎な感情を振り払うように、額に浮かぶ汗を濡れた手ぬぐいで拭いてやった。
そしていつの間にか傍で俺も眠ってしまったらしい。

目を開けると視界は薄明るくなっており、すぐ近くにクラウドの横顔があった。
穏やかな寝息に安心し、そろそろと手を伸ばして眠る彼の頭を撫でた。
すると、静かに彼の瞳が開き、不思議そうにこちらを見る。
吸い寄せられるように俺は唇を合わせた。
覚醒し切らない体は正直にそのぬくもりを求める。クラウドの手がそっと俺の背中にまわる。
気が付くと深く貪りあっていた。


「スコー…ル…」


かすれた声で名を呼ばれる。潤んだ瞳が俺を見つめる。
もう駄目だ。止められる訳がない。
そのまま、床に就くクラウドに覆い被さり首筋に舌を這わせた。そうして何度も彼を求めた。




事後の乱れた姿のまま、抱き合って朝を迎えた。
今、何時だろう。雨は止んだのだろうか。


「悪い、そろそろ朝食の時間だ」


そう言って体を離せば、肌に空気が触れる冷たい感触が何とも心許ない。


「…俺の母はこの家で働いていた女中だった」


気恥ずかしさと何となく後ろめたさもあって、手早く衣服を身に着けていると、唐突にクラウドが言いだした。
年若い女中が親子以上に年の離れた屋敷の主と恋に堕ちた。子を宿した彼女は、隠されるようにこの蔵へと閉じ込められた。


「それでも母は幸せそうだったよ。俺はこの蔵で物心ついたときから、主人と母の逢瀬を見て育ったんだ」


ところが既に高齢だった主が死んでしまってから、彼女はおかしくなっていった。
クラウドの姿を求め、彼が見えなくなると泣き喚くようになった。
その後、直ぐに寝付いてしまい、いろいろな事がわからなくなっていった。


「最後には、俺が誰かすらもわからなかったんだ。
でも、愛する人の幻だけは見えていたらしい。いつも、楽しそうに一人で会話をしていたよ」


俺はどういう顔をしていいか分からず、じっと話を聞いているだけだった。


「母が恋した相手は、あんたの祖父だ」


頭を殴られたような衝撃があった。
クラウドの出生が明るみになったと共に、自分と彼が近い血縁関係にあることを知り、激しく動揺した。

その日の朝食は全く味がしなかった。









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あきゅろす。
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