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蔵の中 4



まだ浅い春。
俺は大学に受かり、東京に下宿先も決まって引越しをすることになった。
父は『こちらのことは心配ないからしっかり勉強しろ』と言い、嫁した姉も『私が父をみるから大丈夫よ』と俺を励ました。
家族の思いやりが、何故かとても後ろめたかった。

旅立つ前の晩、出先の父に手紙を書き、夜になってから蔵へと向かった。
薄暗い中、相変わらず蝋燭の灯りだけを頼りにクラウドは本を読んでいる。
俺を見ると顔を上げて本を閉じた。


「スコール、この本は面白いな。あんたの選ぶものには外れがない」
「良かった。その……東京へ行っても本は送る」


俺の言葉がそんなに意外だったのか、クラウドは珍しく少し驚いた顔をして、それから少し申し訳なさそうに言った。


「…助かる。ありがとう」
「いや、いいんだ。もっと面白い本を探しておくよ」


そうして、上滑りしている会話をぽつりぽつりしばらく交わして、俺はクラウドに明日の朝発つと別れを告げた。
クラウドは「そうか」とだけ言い、やはり珍しく薄く微笑んだ。
胸にキリリとした痛みが走って目を逸らす。
彼を見つめていたい。目に焼き付けておきたい。でも、苦しくて痛くてどうしてもできない。
そのまま、帰ろうと立ち上がった。
クラウドは、蔵を出て行く俺を入り口まで見送ろうと一緒に立ち上がり、重い扉の前に立った。


「じゃ…また」
「頑張ってこい。元気でな、スコール」


ありがとう、そう答えながらも、俺はクラウドの顔をまともに見ることができなかった。
そうして逸らした目に、ふと止まった彼の白い手。扉にかけたその、細い指。
子供の頃、初めてあった日、あの冬の川での出来事。今までの事が一気に甦ってきて眩暈がしそうだ。
その白い手を最後とばかりに見つめて、ふと、気がついた。
扉にかけた彼の手、血の気が失せたような白い爪の指先が、扉を握って震えている。


「クラウド?」


思わず、手から視線を彼の顔に移す。そして、彼の零れ落ちそうに大きな瞳とぶつかった。
物言いたげな瞳。震える唇。
そんな目でずっと俺の事を見つめていたのか?
はっ、と小さく息を呑む音がして、我に返ったように彼の手が戸から引かれる。
それを、俺は反射的に掴んでいた。
クラウドの唇が薄く開く。
その唇から拒否の言葉が出る前に、吸い寄せられるように唇を合わせた。
彼がもがくのも、強く押し返されるのも構わず、その甘さを夢中で貪った。

どれだけそうしていたのだろう。
やっと我に返って唇を離すが、俺は謝る事も出来なかった。
彼に非難され拒絶されるのが怖ろしくて、その瞳をまともに見ることも出来ない。


「…あ…」


痛いほどの沈黙がクラウドから破られるのと同時に、彼を突き放すようにして蔵を飛び出していた。






次の朝。
駅まで見送りに来てくれた姉に挨拶して、俺は汽車に乗った。
笑顔で手を振りながら、呆気なく遠ざかってゆくホームや窓の外を流れてゆく懐かしい景色を呆然と見つめた。
暖かい春の日差しが緑を輝かせ、気の早い花が咲き、川の水は澄んで流れている。

しかし、俺の脳裏に焼きついて離れないのは、あの凍えるような寒さに震えた夜の青さだった。
彼の白い頬、吐息、細い肩、薄い背中、凍えた手、白い足。
クラウド。
震えるその手。澄んだ瞳。
そして、柔らかなその唇。甘やかなその吐息。あの、低く優しい声が聞こえる。
鮮やかに甦る光景。
それと同時に浮かぶのは、自分の弱さだった。
臆病な詮索、逃避、自己欺瞞。


クラウド。クラウド。
俺はこみあげそうになる涙を必死で堪えた。
嗚咽すら漏らしそうになるのを耐え、膝の上で拳を握る。

今更遅い、と思った。
自分は彼から逃げたのだ。
その事実に気付き、それを悔いたとしても、汽車はもうあの町へは戻ってくれないのだ。









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あきゅろす。
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