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蔵の中 2


蔵の中。
自分の家だというのに、そこだけが外界と隔絶されていた。

それまでは、昔からずっと家にいる耳の遠いお手伝いのお婆さんが食事を任されていたという。
その食事もできるだけ自分で運び、本を選んで届けることにした。
彼はいつも貪るように本を読んでいた。
大抵の書物は一日もかからず読破してしまうので、父の書斎に在る大量の本はもうあらかた読み終えてしまったそうだ。
俺の所有している本も少なくはなかったが、すぐに読み終えてしまった。
一度適当に見繕って持って行ったら『これは面白くなかった』と文句を言われてしまった。だから定期的に本を探すのが俺の役目になったし、実を言うと楽しみの一つにもなった。

もっと楽しみなのは、彼と話をすることだ。
もともと、俺は饒舌なほうじゃない。言ってしまえば口が無いのかと他人に言われるほどなのだが、なぜか彼と話すことだけは心地がいい。
彼の興味は幅が広く、こんなところに居ると言うのに知識が豊富で話は尽きる事が無い。

そこでやっぱり疑問が浮かぶ。
何故、彼は外に出ようとしないのだろうか?
扉は特に施錠されてはいないのに。


「どうして外に出ようとしないんだ?」


本を持って行った夜、会話が途切れた際に俺は率直に尋ねてみた。


「出てる」


え?と思わず声が漏れてしまった。
それは一体いつのことだろう。クラウドと知り合ってしばらく経つが、蔵の中以外で見かけた事も会ったこともない。


「離れの厠を使わせてもらってるし、風呂だってちゃんと使っている」
「それは出ているとは言わない」


俺がそう言うと、彼はちょっと肩を竦めてみせた。
自由に出入りできる身なのに、どうしてわざわざこんな居心地の悪い所で独りでいるんだろう。


「此処が、俺の居場所なんだよ。別に俺は此処から出たいとは思ってないんだ」


俺の思考を汲んだようにクラウドが口を開いた。
しかし、俺には彼の言っている意味がわからない。
わざわざ此処に居る意味が見出せないのだ。


「なぜだ?こんなところで退屈じゃないのか?それに、冬は寒いし」


蝋燭の灯りに照らされた白い貌が、ゆっくりと自分の周囲を見回した。


「何故だろうな。もうずっと此処で過ごしているから、違う場所で暮らすことが考えられないのかもしれない。
それに、俺は寒さには強いんだ」


俺は途方に暮れた。彼がそう望むのなら何も言えない。
何か出来ることは無いだろうか。
独りぼっちで本ばかり読んでいる彼に、何か出来ることは無いのだろうか。
彼を見つめながら自分の思考に沈み込みそうになった時、クラウドが口を開いた。


「そうだ、スコール。これから外へ出ないか」


突然のクラウドの提案に驚いたが、彼は立ち上がりさっさと扉を開けて出て行ってしまった。
外はすっかり帳が下り、明るい月がぽっかりと夜空に浮かんでいる。


「ああ、いい夜だな」


さくさくと慣れた様子で奥庭を歩くクラウドの後を、俺は無言でついて行った。
繁った青草と夜の匂いがする。
月明かりの中の彼は存在感までが頼りなく、余計に人では無いように見える。
不安が込み上げてくるのに、俺は声をかける事もできず、ただただ夜とクラウドを見つめていた。


「散歩はしてるんだ、たまに」


振り向いてそう言われて、やっと夢から覚めたような感覚になった。
その時の俺は余程呆けた様をしていたのだろう。
不思議そうに見つめてくるクラウドの瞳。俺のぼんやりした様子を見て、いつも無表情の彼がほんの少し笑んだ気がした。


「眠いのかスコール?もう、戻ろうか」


クラウドに言われ、慌てて首を横に振る。


「いや。もう少し」
「そうか」


ぽつりぽつりと言葉を交わしながら、二人で裏木戸まで行き、ついでに外まで行こうと木戸の閂に手をかける。
と、その手を彼の手が押さえた。


「…戻ろうか」


クラウドの柔らかな声音。
俺の手に重なる白い手はひんやりと冷たかった。


ああ。
胸の深奥から湧き上がるこの感情は何だろう。
覚えの無い、自身を根底から揺るがすようなざわめき。
俺の内に拡がる静かな、そして確かな波紋。


ゆっくりと来た道を引き返すことにした。
自分の中に巻き起こった事がわからなくて、この感情が大きくて、どうしようもなくて途惑った。
帰り道、何も言葉を交わせなかった。
クラウドは蔵の重い扉をくぐると振り向いて『おやすみ』と言った。


「また、一緒に散歩しよう。今度は昼間に」
「ああ」


諾の返事を貰い、音もたてずに閉まった扉をこんなに弾んだ気持ちで見つめるのは初めてだった。
月光に照らされた彼の白い腕の艶かしさと、直接触れた肌の滑らかさ。
胸の鼓動が早くなり、その日はなかなか寝付けなかった。


それから、俺はしばしば彼を夜の散歩に誘うようになった。


「運動不足は体に悪い。あんた、いつも座りっぱなしなんだろう」


そうでもないぞとクラウドは反論していたが、彼なりに自分でも思うところがあったらしく、しばらく経つと散歩は日課になった。
暗闇の潜む庭を彼が歩くと、そこだけに光が降りてきたように見える。
だが、彼はいつでもどこか儚げで現実感がなく、空気に溶け込んでしまいそうに思えることが度々あった。
彼の姿が見えなくなる事が、俺にはとても怖ろしかった。


「その……。手、繋いでもいいか」


想い余って俺はクラウドにそう言った。
理由を訊かれたら『目が悪いから』とでも言おうと身構えていた俺に、彼はちょっと不思議そうな顔をしてから、頷いて手を差し出してくれた。
なにも訊かれなかったことにホッとしたのと同時に、今度はやけに騒がしくなった心拍が彼に聞こえないかと心配になる。
やはり、彼の白い手は柔らかく、ひんやりとしていた。









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