セブンス・リート
7
アルベールが芝居を始めた瞬間からジョイスの様子はおかしかった。雷に打たれたかのように硬直して少年を見ている様は、息をするのを忘れたのではと思うほどだった。
「ちょっと、あの子大丈夫なの? さっきから瞬きひとつしてないけど」
リーリエも同じものを感じ取ったらしい。ひそひそとアークに囁きかけてきた。
「大丈夫……じゃないと思う」
「え?」
「緊張してるんじゃないかな?」
2人の会話を耳にしたシルバが眉根を寄せた。
「ジョイスは、学院の生徒の歌を聴くのは初めて?」
「そうだと思う」
そもそも、下町では学院の生徒と出会うことがない。『祭典』で開かれる歌唱コンテストも、ジョイスたちの身分では観覧さえできなかった。
芝居小屋で俳優たちの歌を聴いているといっても、学院で訓練された生徒の歌声には及ばないだろう。初めて聞いた歌声に衝撃を受け、怯んでいるのではないだろうか。
――このままじゃ、マズイな。
アークの胸がざわついた。
「アーク、あんたちょっと行ってきなさい」
「え、行くってどこに?」
「あそこよ」
リーリエが顎で舞台を指して見せた。
「えええええっ!?」
「王様の役、代わってもらいなさい」
「いや、でも俺は」
「あがり症なのは知ってるわよ」
「だったらなんで!」
「あの子を見てなんとも思わないの?」
反論しかけたアークは、その言葉につられて舞台上を見た。ジョイスはアルベールを見つめて微動だにしない。いや、よく見ると、胸元に伸びた右手が何かを掴むようにわずかに動いていた。
録音機。
普段ならそこにあるはずものが、今はない。修理屋を出た時のジョイスの顔が浮かんだ。
「ジョイス……」
そう呟いたとき、アークは自分の右手がしっかりと掴まれていることに気がついた。右手を掴んだ張本人――リーリエがアークの手を無理やり挙げようとしている。
「ちょっと何するんだよ!!」
「いいからいいから」
必死に抵抗していると、アルベールの歌声が耳に入った。力強くて音程もぶれない、完璧な歌声。
確かに完璧だ。でも……。
今朝のジョイスの歌声が思い起こされた。感情がそのまま伝わってくるような、いつまでも聴いていたくなる歌声。
あいつだって、負けてない。あいつだって魅力的な声を持っているんだ。
「サリア、戻って。……ジョイス、始めていいかい?」
「……分かった。クレフ、」
「はーいちゅうもーく!」
わずかな間でも物思いに耽ってしまったのが敗因だった。力がゆるんだ一瞬の隙をついて、リーリエはアークの手を高々と挙げた。
観衆の視線が一気に集まる。演技を終えたアルベールが怪訝な顔で振り返り、ジョイスは大きく目を見開いた。
手のひらから、腕から、顔から、冷や汗がどっと吹き出る。隣に目をやると、リーリエがいたずらっぽくウインクし、シルバはすまなさそうに身を縮めた。もう、後戻りはできなかった。
「よ、よければ、王の役、お、俺にやらせてくれないか?」
ガタガタと震え、真っ青な顔をしたアークはやっとのことで声を絞り出した。
「アーク!? あなた正気なの!?」
真っ先に声を上げたのはサリアだ。音痴であがり症の息子が名乗り出たことに驚きを隠せないようだ。
「なんでそんないきなり……」
「いや、その、えーと……」
「でも、これって不利じゃなーい?」
言葉に詰まるアークの横で、リーリエがわざとらしくシルバに話しかけた。
「な、なんでだい?」
「だって、最初の王様役はとっても上手だったでしょ。どうみたってこの子の方が下手っぴなんだから、グライシング家が勝っちゃうわよ!」
サリアの顔色が変わった。観衆も不安げな表情でお互いの顔を見合わせた。
「だめよ。そもそも、人を替えたら公平な勝負にならないでしょ!」
サリアの言葉にクレフが大きく頷いた。観衆も賛成なのか、うんうんと頷いている。しかし、
「いいだろう」
アルベールが薄笑いを浮かべてアークを見た。
「誰だか知らないが、その勇気を称えて舞台にあげてやろうじゃないか」
その言葉からは、技術のないアークをジョイスに当てることで勝利を確実にできるという考えがはっきりと伝わってくる。
「だめよ。配役は替えません。引き続き私が――」
鼻先に書類を突き付けられて、サリアの言葉は止まった。アルベールは歌主から承認されたという契約書をひらひらと振って見せた。
「……今すぐサインしてもいいんだけど?」
「……」
サリアは悲しそうに顔を眉をひそめ、しばらくしてからアークに体を向けた。
「……アーク、来なさい」
「ああ」
重い空気の中、アークは舞台に続く階段に向かった。上りきってジョイスのもとに近づく。
「アーク、なんで……」
ジョイスは、アークが手を挙げたときと同じ姿勢で固まっている。アークはその頭をこづいた。
「いたっ! な、なにするんだよ!」
「お前がいつまでも変な顔してるからだ」
「……そーいうお前も変な顔してるぞ」
言われなくても分かっていた。階段を上るときは足が震えていたし、今でも止まらない。舞台に上がってからは冷や汗が滝のようだし、ジョイスに言われた通り、顔も真っ青なのだろう。正直すぐにでも逃げ出したい気持ちでいっぱいなのだが、かろうじて残っているプライドでなんとか立っているのだ。
アークの様子を見ていたジョイスが、ふっと笑った。
「……みっともないだろ」
「うん」
即答されて体の力が抜けるとともに、自然と笑みがこぼれた。険しい顔をしてみせると、ジョイスは、にかっと歯を見せた。
「でも、いつものアークだ」
「じゃあ、お前もいつものジョイスだ」
ジョイスの右手が、胸元で強く握られた。
「2人とも、いいかい?」
見図ったようにクレフが声をかける。先ほどまでと打って変わって、ジョイスは大きく頷いた。
『陛下!』
『な、なんだ、騒々しい。』
『王子は奇跡の力をお持ちです!』
『ま、またその話か。き、きき、聞き飽きたぞ。』
『しかし、これは是非ともお耳に入れていただきたいのです。』
アークのひきつった棒読みにもかかわらず、ジョイスはその声を張り上げた。体全体を使って演技をする姿は溌剌とした印象を受ける。
アルベールは護衛が運んできた椅子に腰かけている。先ほど自分が演じた台詞をジョイスがなぞっていく。自分の演技より優っているとは感じない。勝負の前に一瞬怯んだ自分を呪いたかった。
あれはなんだったのだろうか。目に見えない大きな波に飲み込まれるような感覚だった。
「……気のせいだ」
言い聞かせるように呟く一方で、その手は学院の制服であるローブの裾を握りしめていた。
そして、場面は従者の歌のシーンに移った。
ジョイスは深く息を吸うと、軽やかな足取りで舞台前に躍り出た。
* * *
馬車が止まった。カーテンがわずかに持ち上げられ、御者の声が到着を告げる。窓から外をのぞいたヴァノは、不審そうな顔で振り返った。
「カルミナ、本当にここで合っているのですか?」
「ええ」
答えながら、カルミナはこめかみを押さえていた。
「どうしました? 気分でも悪くされました?」
「大丈夫ですわ」
カルミナは何かに耐えながらも、嬉しそうに笑っている。
「今回はなかなか強いのですね」
「は?」
「ヴァノ、頭痛は?」
「なぜ、それを……」
護衛の身分では言うべきでないと考えていたが、先ほどから頭の奥の鈍痛を不思議に思っていた。ヴァノの反応を見て、カルミナは嬉しそうにその手を取った。
「やはり、わたくしの予想は当たりですわ!」
「頭痛がするのを喜ばれるのは初めてですが……よろしいですか?」
カルミナに取られた手をそっと離して、ヴァノは馬車のドアに手をかけた。カルミナが頷くのを確認してドアを開ける。次の瞬間、二人は『祭典』の喧騒に包まれた。
* * *
『我らが奇跡の王子の力
絶えた命の灯(ともしび)に
救いの御手をさしのべん
木々の妖精の声を聴き
木々の妖精それに応え
王子に治癒と叡智を授け給う
治癒の一滴は娘の息吹を取り戻し
叡智の一滴は娘の眼(まなこ)に光を灯す
我らが奇跡の王子の力
国とともに永遠なれ』
ジョイスは歌った。ときに高く、ときに低く、ゆるやかに、そして流れるように。アルベールと比べれば技術は劣るかもしれないが、その分ジョイスの歌声には、決まった枠に収まりきらない「なにか」が溢れ出ていた。
アルベールのローブを掴む手に力がこもる。ジョイスの歌う姿を見ていると気持ちが落ち着かない。技術は間違いなくこちらが優っている。しかし、あの歌声は……。
ジョイスが最後のフレーズをのびやかに歌い終わった。一瞬の静寂のうち、次に上がった歓声は耳をつんざくような音だった。
「よかったぞ、ジョイス!」
突然押し寄せる音の洪水に目を白黒させていると、アークがジョイスの傍までやってきた。頭を抱きかかえられ、髪の毛ごとぐしゃぐしゃと撫でられる。照れくささと驚きがない交ぜになって、ジョイスはアークから逃れようともがいた。
「おい、放せよ!」
「悪い悪い。けど、さすが俺の弟分だな。よくやったぞ!」
再び抱きかかえられそうになったジョイスがアークを押しやった瞬間、湧き立つ観衆の後ろで椅子に座るアルベールと目が合った。
興奮する観衆をなだめつつ、判定に入るサリアやクレフを尻目に、ジョイスはまっすぐアルベールの元へと向かった。
「お前、すげえな!」
「……」
「オレ、学院の生徒の歌聴いたのって初めてなんだ。けど、なんてゆーか……体の芯が震えるっていうか……とにかくすごかったんだ!」
ジョイスは目を輝かせてアルベールを見た。
「なあ、どうやったらあんなに上手くなるんだ? やっぱ学院で専門的な勉強しないとダメなんだよな? 今からでもできることってある?」
「……自由だな」
「へ?」
「お前、聖歌学院に入りたいのか?」
「も、もちろん!」
「だったら、もう少し縛られることを知っておけ」
「しばられる……?」
言葉の意味が分からずアルベールを見ると、少年は唇を噛みしめてこちらを見ていた。
「お前が考えているほど、学院は自由な場所じゃない」
ジョイスが疑問をぶつけようとすると、アルベールはローブを翻して立ちあがった。サリアとクレフが舞台上に現れた。観衆の意見をまとめ終わり、まもなく判定結果が出るのだ。
「みなさん、お待たせしました。判定結果が出ました」
クレフがそう言うと、芝居小屋は水を打ったように静まり返った。クレフは小さな紙を持っている。その紙を観衆に見せて、
「ここに、勝者の名前が書いてあります。みなさん、よろしいですか?」
沈黙を了解と受け取って、クレフは紙をゆっくりと裏返す。ジョイスはその紙をじっと見つめた。心の中で自分の名前がありますように、と念じる。
「この勝負、勝者は……」
芝居小屋の緊張が最高潮に達した瞬間、横合いから小さな手が伸びて、クレフの持つ紙を取り上げた。
「引き分け、にしてはいかがですか?」
いつの間にか、クレフの隣には少女が立っていた。鳶色の髪を肩でまっすぐに切り揃え、頭に赤いリボンを結んだ少女。
「誰だ……?」
突然のできごとに反応できないでいると、隣にいたアルベールが小さく息を呑んだ。
「『第一の歌い手(プリマ・カンタンテ)……!?』」
少女は、その声に反応して素早くアルベールの方へ振り向いた。
「アルベール・アイオス・グライシング! 権力乱用、恐喝、乱闘、その他諸々で貴殿に責任を負ってもらいます!」
可愛らしい外見からは想像しがたい、凛とした声が芝居小屋に響き渡った。
「お、お待ちください『第一(プリマ)』! 僕はたまたまこの場に居合わせただけで……」
「わざわざこの契約書を持って、ですか?」
アルベールの側にたくましい体つきの青年が立っていた。神官が纏うような白い衣服の上から金の甲冑を身につけている。大きな輪を腕に通し、長い鎖を腰でまとめていた。
アルベールが誇示するように観衆に見せていた契約書を一瞥すると、青年はそれを勢いよく破った。
「なぜ『第四の歌い手(クァルト・カンタンテ)』まで……」
アルベールは最後まで言えず、へなへなと崩れ落ちた。グライシング家の護衛が慌てて抱き起こすが、彼らもこの二人組の突然の出現にうろたえているようだった。
ジョイスは、アルベールの言葉を反芻した。
第一の歌い手(プリマ・カンタンテ)。そして、第四の歌い手(クァルト・カンタンテ)。聖歌国家ルクスフォニアを創世した女神を守護する、七人の歌い手の物語だ。歌い手は第一から第七まで存在し、現在は聖歌学院で特に歌の才に秀でた人々がその名を継承しているという話だった。
その七人のうち、二人が目の前に立っている。にわかには信じられないことだった。
青年は一つ溜息をついて、
「……とにかく、グライシングは一度学院に戻しましょう。詳しい話はそれからということで。よろしいですか?」
舞台上の少女――カルミナが頷いた。
「そうですわね。ヴァノの言う通りに」
カルミナの言葉を聞くと、ヴァノと呼ばれた青年はアルベールの手を取った。
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