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- Geist -
思春期青少年の葛藤【V】

 ――一年前。

 高校入学と同時に一人暮らしを始めた時に別れた、たった一人の姉が、訪ねて来た。それまでも弟の様子が気になったのか、彼女は何度も来ていた。陽嗣も姉と会うのは楽しかったのだ。無理もない。実の姉という以上に、彼女は彼にとって大切な同志だったのだから。

 様々な事を話した。お互いの現状、生活、環境、そして未来のこと。陽嗣は、姉の笑顔を見る度に、幸福感を感じたものだ。その幸福感と安堵感を保っていたかった。だから、過去には一度だって触れなかった。触れられる筈がなかった─―

(姉貴が何だって言うんだよ。早く言えよ…!)

 今にも飛びかかって行きたい気持ちを堪えながら、胸中で叫ぶ。

 今は笑っていられる自分達から、笑顔を奪っていた張本人が目の前にいる。本当なら殴り飛ばしてやりたいのに、先程の表情を見た時から、何故か強硬手段には出られない。思考より行動が早い彼には珍しいことだった。

「…………」
「黙ってないでさっさと言えって!!」

 沈黙したままの相手に、とうとう苛々しながら声を張り上げる。その勿体ぶった様子が、流石に彼の怒髪天を今にも突こうとした時だった。


 何かを考え込むように下を向いていた化粧顔が再び彼を見つめる。その目は、今まで目にしたことがない程強い光を持っていた。

 ─―彼は、またもや目が離せなくなった。

「お姉ちゃんがね……来月結婚するのよ」
「……へ?」

 突然告げられた告白に、彼の口から間抜けな声が漏れた。陽嗣はしばし沈黙した後、我に返ったように声を上げる。

「結婚!? 姉貴が!?」
「……そうよ。お相手は職場の同僚の方」
「は!? 同僚って…姉貴と同い年!? 二二じゃん!!」
「……若さは関係ないわ。あの子は自分に合う人を見定められる子よ。その人に早く巡り会ったというだけ。運命の人に出逢えたのよ。……私と違ってね」
「…………」

 流石の陽嗣も、意表を突かれて黙り込んだ。まさか、姉が二二の若さで結婚するとは思わなかったのだ。結婚や夫婦に拒否感があったように感じていたのに。

 それ以上に驚いているのは、それを伝えに来たのが当の姉ではなく、目の前の中年女性であることだ。

「……何で姉貴自分で来なかったの? 何であんたが来たの…?」
「…頼んだのよ。陽嗣には私が伝えるって。だから私が行くまで話さないでおいてって。あの子の幸せを、私の口から伝えてあげたかったから……」

 ――刹那、無性に彼は胸がむかついた。熱いものが一気に込み上げ、瞬時に彼の口から吹き出す。

「今更……ッ! どの面下げて来れる義理があるっての!? はっきり言えば? 姉貴の結婚を理由にすれば俺に会えると思ったんだろ!? そーゆー浅ましいトコがムカつくんだよ!」

 感情に任せて立ち上がり、頭上から大声で罵った。早口で捲し立てた。激情は言葉では表せないということを、初めて経験した。こんなことでは収まらない。まだまだ言ってやりたいことはたくさんある。
 そう思いながら叫んでいたが、瞬間その思考が停止した。

「……もっと言って、陽嗣…」

 そう呟いて無理矢理笑みを浮かべた表情が、其処にはあった。

 思わずその泣き顔を凝視する。涙の線で化粧がぐちゃぐちゃになった、無惨な顔を見つめる。

「……足りないでしょう…? 足りない筈よ。昔、私は取り返しのつかないことをしたわ。言い訳する気もない。殺されても文句は言えない。でも……でも、信じて貰えないかも知れないけど、また今更って言われると思うけど、これだけは言わせて貰うわ」

 彼女は、口元に大きく笑みを浮かべた。

「私は……貴方達を愛していたの。愛したかったの…」
「…………」

 陽嗣は再び黙り込んだ。何も言えなくなっていた。

 この女に出会うことがあったら─―できれば二度と会いたくなかったが─―言ってやりたいことは山程あった。叫び、罵倒し、何回その顔を引っぱたいてやりたいと思ったか知れない。今先刻、それを実現させようとしていたのに。寄りによって、自分自身でその手を止めてしまった。

 愛していたと? 笑わせる!

 ――感情は未だに高ぶっているのに、体が動かない。

「………今更……」

 たったそれだけを低く呟いた彼を、女性は悲しそうに見つめた。

「……陽嗣、私、もう行くわね」

 衣擦れの音を立てながら、彼女は立ち上がった。陽嗣は直立不動のままだ。

「……お姉ちゃんね、とっても嬉しそうよ。相手の方もね、とっても良い方。この前紹介されたんだけど、礼儀正しくて真面目そうで。私の旦那だったあの男と正反対だから、きっと上手く行くと思うわ」

 静かに話しながらゆっくりと帰り支度をしている間も、陽嗣はその方を見ようとしなかった。只、その場に立ち尽くしていた。

 薄手のコートを抱えた状態でハイヒールに足を入れ、ノブに手を掛け。彼女も陽嗣の方を見ずに、最後に呟いた。

「その内、お姉ちゃん、相手の方と結婚式の招待状持って来ると思うわ。陽嗣……祝福してあげてね。あの子は愛されて、幸せになるために結婚するんだから……」

 それきりだった。

 声の余韻は、直ぐに響いたドアの音で掻き消された。

 ボロアパートの癖にやけに重苦しい。

 陽嗣は、数秒間後に遠離って行くヒールの音を、独り佇んで聞いていた。音が消え失せても、動かなかった。いや、動けなかった。

 床がポタリと音を立てる。彼は、自分の視界が曇っているのを自覚した。

「ホント……今更だよ………母さん…」

 何故か無性に泣けてくる。
 らしくない、と自分で思いながら、彼はその場に蹲って、両手で顔を覆った。



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あきゅろす。
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