■ロストメモリー
9
「……兄貴。」
登録名は兄貴。
迷いなく手が通話を選択する。
「俺、夕食作ってきますね?」
俺のその様子に、さり気無さを装って中山が席を外した。
プルルッ…という音が数回した後、
――…はい、
と、電話の声。
「……もしもし、」
若干声が震える。
手がじっとりと汗をかき、自分が緊張していることを悟る。
――厳政か?どうした?
「……兄貴?」
電話口から聞こえる、低く落ち着いた優しい声に、幾分か助けられながら、恐る恐る呼んでみる。
――…お前が電話なんて、珍しいな。いつも店に来るのに…。何かあったか?
「……。」
何て言おう。
咄嗟に電話を掛けてしまったが、まだ自分のことを整理出来ていないのに…。
――…厳政?
声に違和感が乗る。
何も言おうとしない俺を訝しんだのか、そのまま、数回名を呼ばれた。
未だしっくり来ていない名を。
「……俺、」
――…ああ、ゆっくりでいい。話してみろ。
俺が戸惑っていることが分かったのか、はじめよりも柔らかい声でそういってくれる。
「…俺、」
――…みね。
兄貴にそう呼ばれて、一瞬にして温かいものに包まれる。
一条厳政という名前に違和感しか感じないのに、懐かしい感覚が引き起こされるという変な矛盾。
加えて、それがさっきの中山の「ミネ先輩」と被って、みね、と呼ばれて、一気にその名が現実味を帯びる。
気付けば、またポロリと頬を涙が伝っていた。
「俺、記憶が…ないんだ。思い出せない……、兄貴。」
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