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哀れな犬と少女

カイゼルちゃんは幼い頃にお母さんを亡くしていて、お父さんが男手一つで育てていた。
とても我儘な子供だったが、そういった家庭の不幸な事情やカイゼルちゃんの容姿から、
皆が其れを咎める事は無かった。
だがある日の事、周囲の者達がカイゼルちゃんのあまりに我儘で悪戯が過ぎる所業に我慢仕切れなくなった頃、
カイゼルちゃんのお父さんは今迄娘に秘密にしていたある酷(むご)い事実を、
娘にきちんと、嘘偽りの無い様に教えて、躾(しつけ)の意も込めて、
この我儘な娘にちゃんと現実を見詰めてもらおうと試みた。
だが、カイゼルちゃんのお父さんの告げた現実は、未だ小学校へ入りたての子供にはあまりにも酷(こく)過ぎた。
カイゼルちゃんのお父さんは、近所の顔馴染みだけではなく、
今から話をする子供達の砂場や遊具のあるだだっ広い公園を偶々通り掛った奥さんや
其の子供も引き止めて話を聞いてもらう様に促した。
促す時には決まって、
「酷(むご)い話ですが聞いてやって下さい。人が沢山居ないと、うちの娘が恐がってしまうんじゃないかと思いましてねぇ」
と言った。
カイゼルちゃんのお父さんの話は、夕方の夕日が一番綺麗な時に始まった。
この時には既に三十人近くの人が集まっていた。
端から見れば少し緊張気味の統率感の無い男を、女子供がぐるっと取り囲んでいて、
いわば変な宗教団体の様だった。
カイゼルちゃんのお父さんは、娘を胡坐(あぐら)の上に座らせ、
なるだけ怯えないようにと、多分無意識の内に、ずっと頭を撫でていた。
周りの人間にとっては、かえって其れが不安を増大させる元となった。
カイゼルちゃんのお父さんは、悲しんでいる様にも嗤っている様にも取れる表情で、静かに語りだした。
「いつか皆さんには、カイゼルのお母さん、つまり私の妻は、
其の昔、当時の特効薬が未だ開発されていない難病に侵され死んだと聞かせていたと思います。
が、其れは全くの嘘で御座います。
私の妻は生前、ドッグブリーダーの仕事をしていて、犬種はワイマラナーが専門でした。
知らない方の為に一応説明しておきますが、ワイマラナーとは、被毛が細かくて柔らかな極短毛、
色は独特なグレーカラーの艶やかな皮を纏った、元々狩猟犬として作られた奇妙な見た目の犬の事で御座います。
そいつを何十頭も庭に飼い、買い取り先が見つかると、その一頭は部屋で飼って、
餌の管理やら躾やら体調管理やら毛並みの確認やらを細かくやっては、二人で大事に大事に育てておりました。  
ある時、其の当時の流行の伝染病で犬がバタバタと死んでいって、
とうとう残り一頭だけしか居ない、という状況になりました。
この頃の世は非常に荒れており、人々が貧しく、今みたいに政府も民衆に対して優しくなかったので、
他の仕事をする事は先ず許されませんでした。
ですから、私達の財産はもうこれだけだ、如何しよう、と非常に困り果てておったのですが、
そんな中、奇跡的にも有名なお金持ちの資産家の奥さんが、此方に「犬を飼いたい」と申して来たので御座います。
常人なら此処で喜んで犬を引き渡すでしょうが、其の唯一の財産はと言うと、
実は烏に目をやられ、両目が潰れているのでした。
ですが、私達もこれを売らなければ生活が保たず死に行くのを運命(さだめ)としなきゃあなりません。
勿論、そんなのは嫌ですから、売るのは当然なのですが、さぁ、目を如何しよう、という事になりました。
其処で出た考えが―あくまで妻本人の意見ですが―腹に居る子供、つまり今此処に居るカイゼルを直ぐに生んだ後、
自分が腕利きの闇医者を知っているので、其れに頼んで、自分の瞳を犬に移植しよう、という考えだったんです。
何故其処迄するのだ、と皆さんが問うのは承知しています。ですが、其の時の彼女の顔は真剣そのものでした。
時代が時代だったので、不謹慎ながら、其の言葉は余り驚く事無く聞き捉える事が出来ました。
彼女は、貧困で三人とも亡くなるより、自分が犠牲になって、二人を生き長らえさせようと考えたのです。
あぁ、其方のお母さん方、どうか泣かないで下さい。私だって、辛いのです。
ですが娘の為に、この酷(むご)い事実を総て語るのが私の役目なのです。
もう暫し、我慢なさって聴いて下さいな。勿論私は其の事に猛反対致しました。
しかし、他に方法があると言った所で、実際には何の見当も付きませんでした。
この時の世では、未だ全く方法が皆無だったのです。
其処で仕方無く、妻の強い押しに押されて、
もとい、やはり正直な所、未だ死にたくないという気持ちがありましたので…
とこんな事を言うと「妻殺し」や「人の道を逸れている」等と思われるでしょうが、其れは承知の上で話しております。
結局、私の妻は、彼女の言う闇医者とやらに頼んで、自らの命を絶ちました。」

カイゼルちゃんはお父さんの膝の上で俯いた侭で、未だ泣いているのか如何かは判らなかった。
「其の頃はどの者もお金を持っていなかったので、葬式は各自庭で行なっておりました。
勿論焼却も自らの手で行ないました。
皮肉にも、この時カイゼルは、私の腕の中で、燃えて行く母親の姿を指をしゃぶりながら、
訳も解らずといった風に見詰めておりました。
顔の、鼻から上の切り取られている部分は白い布で覆われており、
燃やして行く内に布が取れてしまわないかと、自分の妻でありながらそんな事を考え、
人の肉の焼ける匂いに咽そうになりながら泣き泣き其の晩は過ごしました。
犬の受け渡し当日、相手に御迷惑を掛けないようにと、カイゼルは家に留守番させ、
―貧しいのでベビーシッターは雇えず、誰も居ない部屋に独り残して行きました―
闇医者から犬を受け取り、此方から直ぐにお宅へ訪問をしに行きました。
この時は未だ、檻に被せた布によって犬の手術具合は判りませんでした。
受け取り手が私を家に招き、檻を開けた瞬間、奥さんの金切り声が部屋中に響き渡りました。
其れも其の筈、犬の顔は、何処から如何見ても、人間のようだったのです。
いや、別に闇医者が失敗をした訳ではありません。
ちゃあんと注文通り手術を施しておりました。
しかし、顔の形が犬であれども、切れ長で薄いブルーの瞳の、黒く長い睫(まつげ)を持った犬というのは、
想像を絶する程の気色悪さでした。
両の瞳の周りは、紛れもなく人の、肌の色でした。
グレーの身体に、細長い鼻から上だけが肌色で、
其の「人の目」で見詰められた瞬間は身の毛がよだつ想いでした。
初めて人の、私の妻の目蓋(まぶた)を気持ち悪く思いました。」
カイゼルちゃんは、とうとう泣き出した。尋常じゃない程に泣きじゃくっている。
お父さんの胡坐から飛び降りると、近くで話を聴いていた子供の前で発狂した。
其の子供の手にはリードが握られており、其の先には母の瞳をしたワイマラナーが
だらしなく舌を垂らしながら嗤っていた。
カイゼルちゃんは枝を拾うと、其の犬目掛けて滅多突きにした。
顔から飛び出る血飛沫に、灰色も肌色も、総てが一緒くたに赤色に染まった。


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あきゅろす。
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