突然!?
3
女を誘うのは自分から。別れを告げるのも自分からだ。
しかしその日、別れを告げたのは女の方だった。告げるというほど生易しいものではない。
頬にくっきりと手形を残されたのだ。
原因も女の顔も忘れてしまったが、自分の顔が腫れていたことは覚えている。
頬を押さえて、玄関に置いていた傘を持たずに雨の中を歩いた。
傘を差す気にはならなかった。
ぼんやりと適当に進んでいる内に、見慣れない道に出てしまった。だが、少し戻れば馴染みの道に出るだろうことは予想できた。
万が一、自宅へ帰れなかったときは、また女に声をかけて暮らせばいい。
そう考えていた。
しばらくして、コンビニを見付けた。飲み物でも買うかと立ち寄る。
「いらっしゃいま、せー…」
赤い手形がまだ残っていたはずだったが、再びこのコンビニに寄るつもりもなかったので、気にせずに入った。
それが悪かったようだ。
中にいた店員は柳平の姿を見て顔を引きつらせた。硬直した店員を無視し、飲み物のコーナーに向かう。ペットボトルを一本取り出し、レジの前へ行った。
ペットボトルを置き、財布から金を出した。
「水浸しで悪いけど」
「え、あ、大丈夫です」
緊張した面持ちだった。バイトに入って間もないのだろう。慣れていない。
作業しながら、店員はペットボトルとコンビニのドアをとを交互に見ていた。支払いを済ませ、レジから離れようとしたが、呼び止められる。
「あの、傘は買わないんですか?」
ドアの前にはビニール傘が並んでいた。それを手に取る気配のない柳平を不思議に思ったらしい。
「買うお金がないからね」
嘘だった。
長財布の中には一万円札が入っている。
そうでなくとも、ペットボトルの代わりに傘を取ればいいだけの話だ。
「移動先は近いんですか?」
「家に帰るくらいだけど、近くはないと思う。たぶん」
「たぶん?」
「…帰ってもいいかな」
「す、すみません」
踵を返して外へ出る。
相手が女の店員であったなら、何かが変わっていただろう。しかし相手は男だった。明日になれば顔も忘れる。
ただのアルバイトの店員が、ただの客である自分に口を出して来たことが気に入らなかった。
まだこの辺りをうろつくつもりだったのだが、さっさと家へ帰りたくなった。
数歩、外へ出たところで呼び止められる。
溜息を吐き、顔だけで振り向いた。
「お釣でも忘れてた?」
「いえ、忘れ物じゃないです」
先程の店員が、水色の傘を差して走り寄って来た。片手には白いタオルが握られている。
彼は傘を高く挙げ、柳平を中に入れた。
「じゃあ、何の用なの」
「余計なお節介だっていうのは分かってるんですけど…これとこれ、使って下さい。おれので悪いんですが」
傘を顎で指し、タオルを軽く挙げて微笑んだ。
「どんな事情があるのかは知りませんけど、やっぱりそれ以上身体を冷やすのは悪いと思うんです。風邪を引きますよ」
「君はいつも、雨の日に傘を買わない客に対してこんなサービスをするの?」
「しませんよ。きっと、これが最初で最後です」
揶揄混じりの柳平の言葉に、平然と答える。
「気に入らなかったんなら、おれが店に戻った後にでも捨てて下さい。今すぐ捨てられると、流石にへこむんで。では」
「え、ちょっと!?」
押し付けるだけ押し付けて、さっさと店に戻ってしまった。受け取ってしまった傘とタオルを持ったまま立ち尽くす。
お節介を安売りしたかったのか、善人ぶりたかったのか。
余りにもあっさりとしていたため、彼が何を狙っていたのか、何も分からなかった。
柳平は極稀に、男に言い寄られることがないでもなかったが、彼はその類でもなかったようだ。
傘とタオルを押し付けた割に、返しに来いとは言わなかった。むしろ捨てていいと言っていた。
ただ、目の前にいた者を少し手助けするだけで、それ以上は何もするつもりがなかったのだ。
店へ入ったときは、手形に息を飲んでいた。
だが、彼が頬を凝視していたのはそのとき限りだ。以降は一度も見ていない。真っ直ぐと柳平の目だけを見ていた。店内にいたもう一人のスタッフはちらちらと頬を見ていたのだが、先程の彼はしていなかった。
おかしな子。
それがこのときの印象だった。
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