立つことやすき、花のかげかは
桜の根元に立つ宗昌は、龍笛を口に当てる前にそっと見上げる。
薄紅色の花弁に、花々に、そこにいるであろう女の魂に微笑んだ。
「貴方とは、もっと早く出逢いたかった。そうしたらきっと俺は貴方に……」
惚れていたような気がする。
同情ではなく、何となく想う気持ち。
「今日のみと 春を思はぬ 時だにも 立つことやすき 花のかげかは
(今日を限りと春を思わない時でさえも、立ち去り難い花の下だろうか)」
桜の為に読む歌。櫻の為に捧げる歌。
いやこの歌は彼女に相応しくない。今日だけ、今日だけは彼女の為の物に。
「いにしへに なほ立ち返る 心かな 恋しきことに もの忘れせで」
そっと龍笛に口を当て、宗昌は音を奏で始める。
音と共に花弁が舞い始める。散り始める。舞い散り始める。宗昌には分かっていた、散った花弁は他の桜と共に青々とした若葉をつけるのだと。
来年、女の魂は此処にはないのだと。
そう思うと胸が締め付けられる。幼き頃から自分はこの桜が気に入っていた。もしかしたらそれは女の魂に魅せられていたのかもしれない。花の香りに形を変え、自分を魅せていたのかもしれない。
気付かぬうちにきっと自分も恋をしていたのだろう。櫻という魂の宿った桜の木に。
嗚呼、自分は他の女と共に生きるけれど。
いつかこの記憶はただの想い出となるだろうけれど、忘れないから。
“ す き ”
耳元に届いた声音。
本当に自分のことを想ってくれていたのだ、彼女は。思い余った行動を起こすほど。
(気持ちに応えられなくてすまない)
姿形の見えない彼女に詫び、彼女の魂が此処から消えてしまうまで龍笛を吹き続けていた。
魂が浮かばれるように。来世で逢えるように。来世で幸せになれるように。
やがて花弁が全て落ちてしまう。
櫻の魂は消えてしまったようだ。
ボンヤリと立ち尽くし、何故か伝い溢れる涙を拭いもせず宗昌はそっと口を開いた。
「毎年この桜の木の下で、櫻(貴方)のことを想い出すから…想い、出すから」
濡れる視界の先で、見知らぬ可愛らしい女性が微笑んだような気がしたのは目の錯覚だろうか。
End
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