02-16
「――空さま、お元気そうですね。“あんな事件”が遭ったので心配していたのですよ」
前触れもなく聞こえた第三者の声。
体が自然と強張ってしまうのは、声の主に心当たりがあるからだ。
まさか、この声は。
ぎこちなく振り返る。大地を彷彿させる分厚い茶のカーペットを踏み分けるように歩んでくる男が一人。
努めて優しそうな笑みを浮かべてはいるものの、目は氷のように冷たい。
まるで俺を嘲笑しているようだ。
交流会という場に合わせたスーツと高級感を漂わせているロレックスの腕時計。時計盤がLED照明を反射し、俺の目を射した。
「あ、あれは七瀬さん。どうして此処に」
トロくんから逃げていたさと子ちゃんが近付いてくる男の姿に気付き、声音を震わせる
そう、早足で歩んでくる男の名前は七瀬博紀。
御堂財閥の仲居で俺の目付を買っていた男。
優男の皮下は腹黒一色だ。
彼には良し悪し関わらず“世話”になっていた。
なによりも彼は御堂淳蔵側の人間だ。
「やれやれ。無駄足を踏まされましたよ」
情報では留守番を強いられていると聞いていた。
だから実家を含めて迎えに出掛けたというのに。
本当に手間のかかる人だと博紀さんは白々しく肩を落とす。表情は変わらないままだ。
速足で歩んでくる彼が俺の前に立った。「おさがり下さい」蘭子さんが前に出るけれど、彼は人間盾を糸も容易く素通り。
「お怪我の具合はどうですか?」
と、俺に声を掛けた。
建前であろう質問をぶつけてくる博紀さんの心意が読めず、警戒心を募らせてしまう。博紀さんは一体何をしに来たんだ。
「心身傷付いたであろう、あの忌々しい事件。空さまは身内により“危うく命を落とす”ところでしたが、見る限りお元気そうですね」
まるで何かの真偽を確かめるような眼が俺の心を見抜こうとする。
察してしまった。博紀さんは事件の真相の真相を探りにきているんだ。
あの事件の真の首謀者が誰なのか、俺は知っている。
事を知っているのは俺を含めた三人。
俺は顔色を変えているであろう女中を背に隠すと、「おかげさまで」とそっけなく返した。
未だ気持ちは引きずっていると厭味ったらしく返答するものの、相手には通じない。
一笑を零し、元気そうじゃないかと肩を竦めて腕を取った。
俺は目を点にする。
あの、この手は何ですか? 何ですかね? 「行きますか」はいっ?! 何処に?! ちょっ、どどどど何処に連れてっ?!
「そ、空さま!」
さと子ちゃんが俺の背中にしがみついてくる。
「あぁああ羨ましい!」
キィキィ喚くトロくんは俺のことなんて絶対にどうでも良いとみた。
さと子ちゃんに抱きつこうともろ手を挙げている。が、彼女から今抱きついたら絶交だと釘を刺されたために石化。哀れなことにその場から動けなくなっていた。
「七瀬。空さまをお放しなさい。これはあんまりな無礼講ではありませんか?」
冷静に物申すのは頼もしいかな蘭子さんだった。
博紀さんの手を払いのけ、場を弁えるよう促す。
さすがは大人のお姉さま。対応が素晴らしい!
凛々しい横顔には少しばかり見惚れてしまったんだども。
けれども博紀さんも胆の据わった青年だ。
相手の睨みなど右から左に流し、自分は目付として主に教育指導をするだけだと鼻を鳴らす。
交流会でヘマを起こされては此方としても困る。
骨肉の争いと言うべき内紛を御堂家は起こしているが、同じ御堂家に関わる人間には違いない。
公の場ではそれなりの振る舞いをしてもらわなければ、と博紀さん。
それには及ばない。自分が受け持つのだから。
蘭子さんの返答に「あなた方の教育は甘いですから」
「幼少から教育されているのならまだしも、空さまは玲お嬢様とは育った環境が違います。高槻さん、あなたのやり方では空さまのためにもならない。もし立食パーティーの時に“土産が欲しいので包んでもらいたい”など意地汚いことを申されたらどうします? いい笑いものですよ。他の財閥もいらっしゃるのに」
う゛!!
そ、そ、それは否定できない。
父さん母さんの土産を考えていた手前、否定はできない。
でも意地汚いはあんまりだ! 意地汚いは!
そんなまさか、蘭子さんが大袈裟に否定するものの、当の本人は身を小さくすることしかできず、その様子を見た博紀さんが呆れ気味にほらこの通りだと指摘。
だから教育指導をする人間が必要なのだと人を指さす。
「会長は僕に目付の継続を命令しています。ならば僕はそれに従うまで。今宵はお供させて頂きますよ」
「不要です。私がいるのですから」
「貴方のご命令は聞きません。僕の主は会長なので。おっと、諍いはやめましょう。僕等の関係を公の場でさらけ出すと財閥にとって不都合になりますから。此処には未来を背負う財閥界の二世三世が集っていますから」
不快感を示す蘭子さんが反論の意を唱えようとするものの、彼の注意により言葉を嚥下してしまう。
蘭子さんも財閥界の内情をよく知る人間。
同財閥の目付同士が対峙する姿勢を見せれば、何かしら事件が起きたのでは、と周囲に興味を持たせてしまう。それこそ上を目指す財閥には注意をしておかなければ。
どちらかが折れなければならない状況。
完全に不利なのは俺達だ。淳蔵さん主催の交流会のことについて何も聞かされていない。
だから、どれほどの財閥が来るのかすら分からず、下手に行動も起こせない。
なんといっても淳蔵さんは策士だ。
水面下で博紀さんにどんな命を下しているやら。
だったら此方のできる最良の手立てはひとつ。
「蘭子さん。博紀さんに継続して目付をお願いしようと思います。此処は引き下がって下さい」
此方の意見を通すには分が悪すぎる。
蘭子さんに視線でそう伝えると、「畏まりました」聡い彼女はすべてを察したようで小さく頷き、素直に従ってくれた。
この場を凌ぐにはこれしか方法がない。
御堂先輩が知れば憤ることは間違いないけれど、しょうがない。逆らうだけ相手のドツボに嵌るだけだ。
それに彼を傍に置くということは、逆転の発想をすると彼が何をしようとしているのか、見張れるということ。
危機でもありチャンスでもあるんだ。
ここはいっちょ賭けに出てみよう。
「ええんか豊福」
珍しく俺を心配してくれるトロくんに頷き、今は相手に従うよと苦笑を零した。
さと子ちゃんは非常に複雑そうな顔をしている。
そりゃそうだ、好きだった相手だもんな。ごめんね、こんな判断しかできなくて。
「貴方は賢い人間ですね。本当に油断のならないお方だ」
頭の回転が良い博紀さんにもすべてがお見通しのようだ。
嘲笑を浮かべて、感心すると褒め言葉を送ってくれた。ちっとも嬉しくないんだども。
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