00-02
すると向こうから魘されるような、細い声が僕の鼓膜を振動させた。
早足で中に入ると、顰めた顔でうんうん唸っている婚約者の寝顔が。
よほど恐ろしい夢を見ているらしく、毛布を握り締めるように眠っている。
もしかしたら“あの事件”が尾を引いているのかもしれない。
退院して間もないんだ。
悪夢を見てもおかしくない。
人の死を目の当たりにしてしまったあの事件、巻き込まれたさと子だって、今は平然としているけれど当時は精神的に参っていた。
心身共に完治するには時間を要すだろう。
と。
「せく、はら……、せんぱ……、うぅ……、えぐ、い」
死にそうな顔で魘されている、その寝言を聞いてしまった僕。
あわあわとしているさと子がこっちを一瞥して、「ひっ」と悲鳴を上げていたけれど目を瞑ることにしよう。
そうかそうか。
悪夢を見ている内容のすべてを把握することはできないが、僕の心配する内容ではなかったようだね。
果たして婚約者が、僕の悪夢を見ているのか、元カノの悪夢を見ているのかは定かではないけれど、非常に失礼な悪夢を見ていることだけは明言できる。
なら、僕の行動すべきことはひとつだ。
長テーブルに盆を置き、パキポキと軽く指を鳴らした後、
「楽しいお目覚めの時間だよ」
悪夢なんて吹き飛ばしてあげるさ。
相手を見下ろし、ニンマリ口角をつり上げたのだった。
「―――…なん、で寝込みを襲われたんっすかね俺。……凄まじいキスでしたよ。ほんと」
ぼさぼさの髪をそのままに、上体を起こしてこめかみを擦っている豊福が深い溜息をついた。
きょろっと彼の目玉が動く。
行為の追究をしているのだろうけれど、するまでもないと僕は思っている。
原因は十中八九、豊福だ。
すべてにおいて非礼を口にした、いや無礼な夢を見た豊福が悪い。
ぶすくれている僕を余所に、茹蛸のように頬を紅く染めているさと子が「情熱的だった」と胸を押さえている。
初心(うぶ)な彼女には刺激が強かったかもしれない。
刺激に関しては豊福も同じことが言えるようだ。
キスで無理やり起こしたところまでは良い。
けれど、目覚めた彼は蒼白した面持ちをしていた。
今朝からずっとこれなんだ。
本当に具合が悪そうでわるそうで。
蓄積された疲労が今になって出てきているのだろう。
「熱っぽいね」
額に手を当て、軽く体温を測る。
「寒気は?」その手を首筋に滑らせた。
体は火照っているようだ。
いつもよりも熱帯びている。
首を横に振り、彼は水分補給がしたいと口にした。
さと子が気を利かせてミニ冷蔵庫からポカリを取り出し、グラスに注ぐ。
「空さま。お昼のご用意ができています。玲お嬢様が作ってくださったんですよ。少し、お召し上がりになりませんか?」
並々とポカリを注いだグラスを持って戻ってくる女中の申し出に、彼は迷うことなく首を縦に振った。
「無理しなくてもいいんだぞ」
ただでさえ僕の料理の腕はお粗末だし。
もう麺がのびているかもしれないし。
玉子はバラバラだし。
口ごもりつつ、相手の体を気遣う。
「俺のために作ってくれたんでしょう?」
なら尚更に食べたいです。はにかむ豊福に頬が上気した。
改めて彼のことが好きなのだと痛感してしまう。
調子が狂うな。
何気ない言動にすら意識を傾けてしまうのだから。
―――本気で彼に恋しているんだな、僕は。
小皿に少量のうどん麺を移し、更に箸で麺を切って食べやすくする。
最後はそれをレンゲで掬い、口元に運んでやる。
普段なら恥ずかしがって遠慮する彼だけれど、今日はその元気もないようで大人しく食べさせてもらっていた。
「美味いっす」
力なく綻ぶその表情に笑みを返す。
うそばかりつく彼の瞳は誠意で溢れていた。本音なのだろう。
見た目はよろしくないけれど、味はよいと思っていいのかな。
「早く元気になるんだよ」
頭を引き寄せてキスをする。
さすがの彼もこれには羞恥心を駆り立てられたらしく、「さと子ちゃんがいるんですから!」と、抗議された。
「空さま。私のことは背景とでも思ってくれたらいいので」
にこにこっと笑うさと子。
一方で項垂れる彼は余計に恥ずかしくなる気遣いをどうも、と返事していた。
いつまでたっても初々しいな豊福は。
こうして和気藹々と過ごすのも久しい。
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