“博学の天使”
* *
「――おい千羽副隊長。どういう了見でこんな時間まで弟を外に連れ出してるんだ? まず俺等に断りを入れたか? なあ? 普通入れるべきなんじゃねえのか? 帰宅してみりゃ弟はいねぇ。いつも片付いてる食器はそのまんま。ハーブ薬草を世話した形跡もねぇ。何かあったんじゃないかって、俺も柚蘭もすんげぇ肝が冷えたんだが」
「も、申し訳ございません。しかし、これも仕事で。今日は取調べをしたく異例子に部署まで来てもらっていました。ご安心下さい。ご心配されることは一切しておりませんので」
「仕事だから無断で連れ回していいって話でもねぇだろ。今何時だと思う? 八時過ぎだぞ」
千羽に背負われ我が家と呼ぶべき場所に帰宅した菜月は、ぼんやりと玄関口で仁王立ちしご立腹している兄と困り果てている副隊長のやり取りを見ていた。
菜月が帰宅した時刻は時計塔の鐘の音が八回鳴って暫く経った刻のこと。
最近、兄姉は揃って母親の見舞いに行っているため(向こうは自分に秘密にしているようだが)、帰宅時間が遅い。大体九時過ぎになる。
今日もそうだろうと踏んでいたのだが、自分達が家の敷地に入ると頃合を見計らったかのように玄関扉が開いた。出てきたのは片眉をつり上げ、軽く青筋を立てている兄。怒りのオーラを纏わせ、これはどういうことだと千羽に説明を求め今に至っている。
千羽はホトホト困り果てている様子だった。
千羽はどう足掻いても一般天使。位の高い四天守護家鬼夜の天使に歯向かえない。
隊長クラスになると同等の地位を与えられるらしいのだが、千羽は副隊長。位は四天守護家よりも下だ。説明はできるものの、反論という形は取れない様子。
彼は必死に悪いようにはしていないと兄に説明している。
信用できないとばかりに螺月は目を細め、どうして弟を背負っているのだと指摘した。
「具合が悪そうで」
しどろもどろ答えると、「具合が悪い、だぁ?」火に油。螺月の怒りのボルテージが上がった。
「やっぱ何かしたんだろ」
詰問する螺月に対し、ブンブンと首を横に振って千羽は説明を繰り返した。
埒の明かないやり取りをぼんやりと見つめながら、菜月は先程のことを思い出していた。自分を引き取りに来たという白衣の男のことを。
あの男は一体何者だったのだろう。
兄にソックリの容姿を持った天使、博学の天使と名乗った男、あの人は自分の父親なのだろうか。
黙然と思考を回していると千羽に下ろすぞと声を掛けられた。
菜月はハッと我に返り、おずおずと頷いて彼の背から下りた。
延々と行われるのではないかと思われたやり取りは、意外とあっ気なく終止符を打ったようだ(千羽の仕事が詰まっているらしい。急いで部署に戻らないといけない、彼は兄にそう説明し終止符を打たせたようだ)。
菜月は千羽の背を見送り、兄と共に家の中に入る。
「心配したんだぞ」
兄にそう声を掛けられたが、菜月は白衣の男のことで頭がいっぱいだった。
それは夕飯時でも同じだった。リビングキッチンで自分のことを待っていた姉にも同じことを言われたが上の空。
三人(正しくはカゲっぴも入れた四人)で夕食を取っている際も、菜月は上の空だった。自分の中の影にいるカゲっぴのためにサラダや果実やパンを影に落とすものの、自分自身は食欲が湧かず。
もそもそとパンを小さく千切っては口に運び、水で流し込むばかり。
熱々のスープや炒め物に関しては手をつけようとも思わない。疲れているから食欲が湧かないのか。
それとも白衣の男に会ったせいで食欲が湧かないのか。
水ばかり口に運ぶ菜月は小さく溜息をつき、食事の手を止めた。まったく食べられる気がしない。
「ごちそうさま」
食事を半分以上残し、菜月は食べ残しを片付け始めた。それを制したのは柚蘭だった。
「菜月、まったく食べてないじゃないの。せめてスープだけでも食べてしまって。それとも体調が悪い?」
「少し疲れただけだよ」
体調はもういいのだと答えると、「聖保安部隊と何かあったんだろ?」螺月が話に加担した。
「さっきから溜息しかついてねぇぞ。何かヤなことでもされたんじゃねえのか?」
「そんなことはない…けど」
何でもないのだと返すが二人にはまったく通用しなかった。
「何でもねぇで溜息は出ねぇだろ」と兄。「遠慮しなくてもいいのよ」と姉。揃って心配と質問を浴びせてくる。
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