03-18
(――自己嫌悪で死にそうだ)
リビングキッチンに戻った螺月は食べかけの夕飯を放置し、ため息をつく柚蘭と向かい合うような形で席についていた。
脳裏に過ぎるのは、今しがた言い争った光景――これは完全に自分達に非がある。
(菜月はただ博学の天使について聞いただけだ。何も悪くねえ)
末弟は博学の天使のこと、父親の存在をほとんど知らない。
それもそのはず、あれは菜月が生まれて一年足らずで行方不明となった。
末弟が生まれる五年ほど前。
螺月は姉や母に加え、父と四人家族で暮らしていた。
なんてことのない家族構成だが、姉も自分も一家の大黒柱である父から愛情を与えられたことがなかった。記憶にあるのは自分達に無関心な父と、無償の愛情を注いでくれる母。
父、鬼夜灯月は家族という繋がりにとことん無頓着な天使だった。
そして研究熱心な天使だった。博学の天使と呼ばれていた父は族内では、とても有名な研究者だったらしいのだが、螺月は父が何を研究をしていたのか知らない。
噂は度々耳にしている。
若い内から智天使の称号を得ていた天才肌で、周囲からは“博学の天使”と呼ばれるほどだったとか。
聖界でも五本の指に入る指折りの研究者だったとか。
難しい古代魔聖語を読解することのできる人物だったとか。
そういった研究者の面の噂は耳にしていた。
高評価されていた天使だったことも知っている。
しかし父親の面としては評価する価値もない天使だった。
あれは朝から晩まで研究所や家の書斎部屋に閉じ篭り、熱心に研究研究けんきゅう。
子供だった柚蘭や螺月、献身的に夫に尽くす母にはまったくの無関心。寧ろあしらうことが多かった。
無断で書斎部屋に入ると激しく怒りを見せた。
父にとって研究場としている書斎は聖地のようで、やたらむやみに部屋へ踏み入れらることを嫌っていた。
好奇心で足を踏み入れた螺月は姉と共に、父に怒鳴りつけられたことがある。母親を巻き込んで父親に怒鳴りつけられたあの光景は未だに忘れられない。
感情を表に出さない父親に怒鳴られた以降、自分達は書斎部屋に近寄ることすらなかった。
そういった経緯で姉にとって父は逆らってはいけない存在だと認識していたし、螺月にとって父は嫌悪感を抱く存在だと認識していた。
特に螺月は父親を毛嫌いしていた。
常々母や姉に愚痴っていたものだ。なぜ、何もしていない父と一緒に暮らさなければならないのか、と。
父と一緒に暮らすことが心苦しいと、幼い口で吐露する螺月に、「ごめんなさいね」母は苦笑いを零していたことをよく憶えている。
愛情の一切を注いでくれない父と数年共に暮らしていたある日、父は何の前触れもなく自分達家族を置いて出て行った。
前兆も無かったと思う。
突然行方を晦ませてしまったのだ。
どんなに冷たくあしらわれようと母は父を深く愛していた。
父がいなくなっても、「自由なお父さんね」と柚蘭や螺月に優しく微笑んで父を庇っていた。人間界に住んでいた祖父が話を聞きつけ、母を心配しに訪れた際も同じ口振りで父を庇っていた。
悲しみに暮れながらも自分達を必死で守り、愛してくれる母。父はいつか帰って来ると断言した母。父を信じていた母。
母はこんなにも父を愛しているというのに、どうして父は母を愛してくれなかったのだろうか。自分達に愛情を向けてくれなかったのだろうか。幼いながら父は怒りを覚えて仕方が無かった。
(……あいつは母上や俺、柚蘭を捨てた。それを菜月は知らねえ)
何も末弟は知らないのだ。
仕方がないことだ。末弟はまだ生まれていなかったのだから。
(動揺していたとはいえ、言って良いこと。悪いことがあるだろうが)
末弟と暮らし始めてひと月あまり。
菜月は少しずつ、素顔を見せてくれるようになった。
最初こそ挨拶すらしなかった末弟が、挨拶を返すようになり、食事の用意をするようになり、今日の出来事をぽつぽつと語るようになった。心を見せるようになった。
今日だって、自分達に心を見せて相談を持ちかけた。それは曲がりなりにも信頼を寄せてくれたということ。
なのに、自分は信頼を踏みにじってしまった。
脳裏に過ぎる菜月の怒声と、憎しみと悲しみが混じった表情に、吐き捨てられた台詞。
『俺が生まれたことで家族を狂わせたなんて、そんなの、誰でもない俺が分かっているんだよっ、全部……ぜんぶっ!』
――あんな顔をさせるつもりはつま先もなかったのに、何をしているのだろうか、自分は。
ふたたび心を閉ざしてしまった菜月は、明日からまた口すら聞いてくれないやもしれない。
それでも、それでも、だ。
「柚蘭。さっき言った言葉だが……俺は異例子が親父に引き取られなくて良かったと思っているよ」
静寂に包まれるリビングキッチンに、凛とした螺月の声が響く。
こちらに視線を投げる姉に、力なく笑い、「前言撤回しておこうと思って」と肩を竦めた。
軽はずみで吐き出してしまった言葉を、どうしても訂正したい。末弟の心には届かないだろうが、せめて血の繋がりのある姉にだけでも、自分の気持ちを伝えたい。
「親父に引き取られていたら、この同居生活はなかった。俺は菜月の兄貴で本当に良かったと思ってんだ。あいつは信じてくれねえだろうが、本心からそう思っている。もちろん、周囲から差別される現状はつれぇが、弟を失う方が百倍つれぇ」
「螺月……」
「異例子が生まれたことで、俺達の生活は変わった。それは事実だ。けどな、菜月が生まれたことで、俺は憧れていた兄貴になれた。前途多難ばっかだが、少しでも距離が縮められると、それまでの苦労なんてどうでも良くなる」
だから、そう、だから自分は無理をしていない。
異例子の兄として傍にいることも、家族と名乗ることも――絶対に手放す気はない。二度と手放さないと決めたのだ。恨まれても、憎まれても、自分は異例子の兄として傍にいると。鬼夜菜月の兄として傍にいると。
「あいつが落ち着いたら、腹を割って話す。菜月は嫌がるかもしれねぇが、この気持ちは伝えるつもりだ」
それこそ気持ちが伝わるまで、何度でも。
柚蘭に小さく吐露すると、向こうから力のない苦笑が聞こえた。
「十も年下の弟に八つ当たりしちゃうなんて、私も螺月もまだまだね。螺月、今度はちゃんとあの子の話を聞いてあげましょう。父上のことも教えてあげないと。家族だもの。菜月だって親のことを知りたいはずよ」
「ああ。そうだな」
「私達にとって、最悪の父親だけど、あの子はそれを知らないんだもの」
「どんだけクソ野郎か、教えてやるさ。研究以外、何も頭にねえ男が菜月を引き取りたいなんざ、悪い冗談にもほどがある。誰が手放すかっつーの」
今夜はお互い落ち着くために距離を置こう。
明日、きっと明日になれば、上手く物事が運んでくれるはずだ。大丈夫。末弟に体当たりで接するのは慣れている。何を言われようとも、自分の気持ちを伝え続ければ、この気持ちは届くはずだ。
螺月はつよく自分に言い聞かせた。
To be Continued...
20100707
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