02-16
満天の星空の下。
やっと慣れ始めた帰路を二人はゆっくりと踏み締めるように歩く。頬を撫でる微風を受け流し、微風でサワサワと木々の葉の擦れる音を耳にしながら仮ではあるが我が家と呼んでいる家へと帰宅する。廊下はシンと静まり返り、闇がそこを覆っていた。
しかしリビングキッチンの扉の向こうから明かりが零れている。まだ末弟は起きてそこにいるようだ。気配を感じる。
「菜月、ただいま。ごめんなさい。お仕事が長引いてしまったの。お腹減ったでしょ。直ぐに仕度するから」
「って言っても店で軽食しか買えな…、寝てる?」
詫びと弁解を口にしながらリビングキッチンに足を踏み込むと末弟の眠りこけている姿があった。
末弟はテーブルに上体を預け、組んだ腕を枕代わりに眠りこけている。
珍しい。末弟が此処で眠っているなんて。大抵、眠くなればさっさと自室で寝てしまっているというのに。
テーブルの上には使われていない食器が並べられている。
かごにはロールパン、大皿にはサラダが盛ってあり、鍋敷きに載っている鍋の蓋を開けてみると見たことも無いスープが入っていた(人間界のスープだろう)。もしかしなくともこれは菜月が夕飯を用意してくれたものだ。
二人は驚いた。
同居を始めて以来こんな気の利いたことを、大切なことだから繰り返すがこんな気の利いたことを菜月がするなんて初めてのことではないだろうか。
どんなに帰宅が遅くとも菜月が三人分の飯を作ることは無かった。以前、菓子を一度だけ作ってくれたことはあるがそれっきりのこと。家事をしてくれようとも菜月が台所に立つことなど一切なかったというのに。
今、菜月はこうやって夕飯の準備をし、自分達の帰りを待ってくれていた。自分自身も食べていないのだろう。テーブルには三人分の食器が並べられていた。
堪え切れずにつまみ食いした形跡はチラホラ見受けられるが、それでもメインのスープには手を付けられた形跡が無い。
先に食べて寝てしまえることもできただろうに、菜月は自分達の帰りを待ってくれていた。その現実が酷く嬉しかった。酷く幸せなものに思えた。些細な事かもしれないが嬉しくて仕方が無かった。
自分達を嫌悪している末弟が、言われもせず夕飯を作って自分達の帰りを待ってくれていたのだ。嬉しくないわけないではないか。
柚蘭はそっと買った物を四隅のテーブルに置き、「サプライズに疲れが吹っ飛んだわ」螺月に笑みを向けた。
「螺月。私、さっきは母上のことで弱音を吐いてしまったけれど。菜月がもしも天使だったら…って、普通の幸せが欲しい…って欲を零したけど。そんなものいらないわ。私は今の家族と幸せになれたらそれでいい。入院している母上とも、異例子と呼ばれたあの子とも、一緒に幸せになりたい。そうでしょ、螺月」
前向きな発言を零した姉に微笑を返し、螺月もまた持っていた荷物を隅のテーブルに置いた。末弟を起こしてしまわないよう声を窄め、姉に言う。
「明日も母上の見舞い…、行ってやろうな。俺もついて行くから。んでもって菜月にも少しずつ認められるよう努力しよう。みんなで幸せになれるように。あいつに認められるのってスゲェ長い月日と根気がいると思うけど、そんでも漸進はしてる気がする」
くしゅん―。
一つ背後からくしゃみが聞こえた。振り返れば、スンスンと洟を啜って寝返りを打つ末弟の姿。
まさか今の会話を聞かれてしまったか、起きてしまったのか。懸念を抱いたが無防備な寝顔をこちらに向け、静かな寝息を立てている。寝冷えしたのかまたくしゃみを一つ。随分長い時間、此処で自分達の帰りを待ってくれていたようだ。
微苦笑を漏らし、柚蘭は菜月を起こしに歩み寄る。
何度か名を呼び、揺すってやると菜月は重々しく瞼を持ち上げた。上体を起こし、ショボショボと瞬きをして小さく欠伸。「眠っ…」消えそうな声で言葉を零し、ポリポリと頬を掻いた。うつらうつら視線を上げてくる。
柚蘭はフッと口角を緩め、目元を和らげた。
「おはよう菜月。遅くなってごめんなさい。菜月が夕飯を作って待ってくれているなら、もっと早く帰って来るよう努力したんだけど」
「べつにいいよ…、仕事だったんだろ…。それより…、俺はもう寝るよ」
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