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02-15


 

 同時刻―。
 
 柚蘭と螺月は母が入院している西区(ウエスト・ブロック)総合病院を出たところだった。

 懐中時計で時間を確かめる。あと一時間で零時を回る刻となっていた。長居するつもりは無かったのだが、気付けばもうこんな時間。仕事が長引いた後に病院を訪れたために遅くなってしまった。
  
 本当は片方が末弟の待つ家に帰るつもりだったのだが、ここ二日ほど母の容態が芳しくなかったため揃って病院へと足を運び、泣き崩れる情緒不安定な母の傍にいてやった。


 今日はとても酷かった。

 一時間も二時間も涙を流し、まるで発狂したかのように不可解な言の葉を喚き散らしていた。

 
 そんな母を宥め、落ち着かせ、眠らせるのに力を使い果たした柚蘭は表情を沈ませていた。
 母の泣き崩れる姿を見る度に心が痛む。誰よりも自分達を愛し、優しい笑顔を浮かべて自分達を育ててくれたあの面影がまるで無かった。母はどうしてしまったのだろう。泣き崩れる母を見る度、どうしたら母を救ってやれるのかと柚蘭は落ち込む。


 昔のように母には笑っていて欲しい。優しく名を呼んで欲しい。

 
 父がいなくなってしまっても女一つで自分達を育て、末弟のことで苦境に立たされても自分と弟を必死に守ってくれた母。愛してくれた母。
 幼かった末弟を愛することができず末弟には酷なことをしてきた母だけれど、末弟を捨てて大きく後悔をしていた。「なんてことをしたの」自責し、苦悩していた母を知っている。もう一度、末弟とやり直したいと祖父に面会を求めていたことを知っている。心の底では末弟を愛してやりたかったのだと知っている。

 そんな母が今、狂ったように泣き崩れ辛酸を味わっている。どうしたら母を救ってやれるのか。またどうしたら母と末弟が和解できるのか。考えれば考えるほど柚蘭の気持ちは沈む。
 「母上…」ポツリと名を口にすると一層気持ちが沈む。

 自然と口を閉ざしてしまう柚蘭に対し、肩を並べていた螺月は何も言えず黙然と歩いていたがふと口を開く。
 

「上手くいかねぇ日もある。母上も気持ちの処理が上手くできなかったんだよ。今の母上は気持ちが上手くコントロールできてねぇから。明日はまた違うかもしんねぇぞ。今日と明日はちげぇんだから」
 

 弟なりの励ましに柚蘭は小さく目尻を下げた。「落ち込んでたら菜月に不審に思われるわね」今は末弟と同居している。
 もしも自分が落ち込んでいて、その理由を求められたら、また察してしまったら、折角気を許し始めている末弟に再び強い警戒心を抱かれてしまう。
 
 身内としてでは一切信用をされていないけれど、一個人としてでは少しだけ気を許し始めてくれた末弟。母の話題が上がれば不快感を示すに決まっている。末弟の立場からしてみれば、自分を捨てた母という存在ほど憎悪を抱くものはいないだろうから。


 柚蘭は時折思う。

 もしも末弟が天使として生まれていれば、母は狂わず、変わらない笑顔を自分達に向けていたのだろうか。自分達は安穏とした生活を送っていたのだろうか。円満に暮らしていたのだろうか。と。
 天使として生まれてこられなかった末弟を責めているわけではない。生まれてこなければ良かったなんて思っているわけでもない。

 ただ不意に思うのだ。末弟が天使だったら普通の幸せが自分達家族に訪れていたのではないか、と。

 「なあ柚蘭…」困惑した声が投げ掛けられる。
 無意識に口に出していたようだ。隣に目を向ければ途方に暮れている弟の姿があった。柚蘭はやんわりと微笑を向ける。
 

「菜月が生まれてきて良かったと思っているのよ。あの子がいなくなれなんて昔みたいに思っているわけでもない。
でも時々思うの。あの子が天使だったら、私達家族は別の未来を歩んでたんじゃないかしら…って。母上も入院することは無かったんじゃないかしら…って。普通の幸せな家庭を築けていたかもしれない。無い物強請りって言うのかしら、こういうの」


 時々こういった現実に疲れてしまうのだ。母のことにしても、末弟のことにしても、周囲から向けられる眼差しにしても、自分自身についても。
 勝手に別の未来を妄想しては普通の幸せを切望する。他の家庭を見ていると、愚かなことに余計普通の幸せを欲してしまう。
 
 敢えて口には出さなかったが螺月には伝わってしまったようだ。

 「今日はもう休んどけ。俺が夕飯作ってみっから」切る専門だから味の保証はしないけれど、ああ、そういえば棚にパンの買い置きがあった。今日はそれで済ませてもいいかもしれない。と、弟なりの気遣いを見せた。

 「駄目ね、今日は本当に疲れてるみたい」弱音を吐いてしまったことを詫び、柚蘭は先を歩いて早く帰ろうと振り返って微笑を向けた。きっと末弟も腹を空かせて帰りを待っているに違いない。帰りが遅いから、と空腹のまま不貞寝しているかもしれない。
 

「まだ店の何処かは開いてると思うから、夕飯はそこで買いましょう。明日の朝食も一緒に」

 
 「そうだな」螺月は小さく微苦笑を見せて答を返した。
 無理するな等といった言葉を自分に掛けなかったのは、やっぱり弟なりの気遣いであり、弟なりの優しさだった。
 



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