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キッカケ、それは何だったか。


    
 
 生活を少しでも楽にするため上京し、祖父の紹介で初めて顔を合わせた時だろうか。


 あの時は緊張しまくった。
 兄姉や祖父に大丈夫だと啖呵を切ったものの、いざ主人と対面するとなると内心ビクビクで壊れるくらいに心臓が鳴っていた。トイレに駆け込みたくなるような衝動にも襲われていた。


 緊張に緊張が重なった対面の時。
 
  
 紹介された主人は、自分より少し年上の子供で女の子だった。
 ちょっと拍子抜けしたことを覚えている。自分が仕えるのは大人だと思っていたからだ。挨拶をすることも忘れ、自分が仕える主人を凝視していると祖父が溜息をついてきた。
   

「菜月。今日からお主が仕える主人の、いばらお嬢様じゃ。ご挨拶せえ」

「え、あ、はい。すみません。えっと、こんにちは。鬼夜菜月です。これから宜しくお願い致します」
 
  
 祖父に指摘され、菜月は慌てて頭を下げた。
 初っ端から失態を犯してしまった、なんて冷汗を掻いていると主人は面白そうな玩具を見つけたように顔を綻ばせた。


「闇夢鏡いばら。宜しくねぇー」

 
 射るような眼差しを向けられドキリッとさせられた。
 まるで自分の心を見透かすように捉えてきた眼に“捕らわれた”ような感覚が襲ってきたことを、鮮明に覚えている。



 不慣れな執事の仕事をこなし始めた頃だろうか。

 純黒で統一されたジャケット・ベスト・パンツ、今まで着たことのないような気品漂う服を身に纏わされた。蝶ネクタイを締められた時の息苦しさ、身に纏った服の堅苦しさ。直ぐにでも服を脱ぎたくて仕方が無かったが、グッと我慢をして仕事を始めた。
 祖父や兄姉の言ったように体力勝負のハードな仕事で不慣れなことばかり。仕える主人は思っていた以上に我儘だし。
 目まぐるしい忙しさに倒れるかと思いながらも必死に主人に仕えた。

 全ては母の、自分達の生活の、為。

 仕事ならば我儘な主人に仕えることだって苦ではない。当初はそう思っていた。



「お嬢様。ど、ど、何処ですかー?」



 部屋を抜け出し、姿を隠してしまった主人を必死に探していた菜月の息は上がっていた。
 稽古が嫌で直ぐ逃亡してしまう主人には困ってしまう。
 レッスンの時間が押し迫っているのに主人から目を放して逃がしてしまった責を感じ、菜月は焦りながら主人を探していた。


 と、庭園に入る主人を見かける。


 主人が見つかったことに安堵して、すぐさま後を追った。


「お嬢様、おじょーさま!」
「ンー? 菜月じゃーん。よく見つけたね」
「よく見つけたじゃありませんよ。戻りましょう。お時間が迫っていますよ」

 隣に並んで上がった息を整えていると、主人が地べたに座り込んでしまう。
 素っ頓狂な声を上げて菜月が立ち上がるよう催促すると、主人は前方を指差した。つられて前方を見ると沢山の木々と花々が視界に入ってきた。


 仕事も忘れ、思わず一言漏らす。


「綺麗ですね。何だか此処は穏やかです」
「でしょー? 時間単位で動くことにダルさ感じると、よーく此処に来るの。此処って自由な感じがするから」

 主人の一言に菜月は、目を細めて周囲を見回す。
 そして菜月も主人と同じように地べたに腰を下ろした。隣に座る主人は少し驚いた顔をしてくる。
 
「あたしを連れ戻しに来たんじゃないの? こんなことしていいわけ?」
「俺がお嬢様を見つけられなかった、ということにしておきますよ」
「イイの? あーんた怒られるよ?」
「休息も必要ですよ、お嬢様。俺も走り回って疲れました」

 微苦笑して告げれば、主人は子供のように嬉しそうな顔を作った。
 対面した時から今日まで、何処か大人っぽい表情を作っていた主人も、こんな表情をするのかと菜月は笑ってしまった。
 
 



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