Others
Side 会長(静也)
後ろめたい気持ちがないと言えば、嘘になる。
でも裏切ったつもりはない。彼と……夢人と恋人同士になってから、他の誰かと関係を持ったことはない。もちろん、日月ともそんな関係ではなかった。
では何が後ろめたかったか。
それは、夢人の傍よりも日月の傍の方が気楽だと思ってしまった事だった。
日月と一緒にいるのは楽しい。
くだらない話で盛り上がったり、馬鹿みたいな事を全力でやったり。毎日が目まぐるしい。オレの傍にいる連中は夢人を含め、静かな連中ばかりだから、たぶん、物珍しかったんだと思う。
オレは、日月との明るい日常に目が眩んでいた。
腹の底から笑って、楽しんで。
そんなオレを、夢人がどんな気持ちで見ているかなんて、考えもしないで。
オレは、どうしようもない馬鹿だった。
だから、失くしてから初めて気付くなんて、ベタなドラマみたいな茶番を演じる羽目になった。
好きな人が自分を好きでいてくれる……そんな奇跡が、ずっといつまでも続くのだと、勘違いして。気付けば掌からは全部こぼれ落ちていた。
「兄貴!」
夢人を探し歩いていたオレの耳に、日月の声が届く。
声の方向へと進み、覗き込む。すると渡り廊下を進む夢人の腕を、日月が掴んでいるところだった。
「オレの話、ちゃんと聞いてくれよ」
日月が真剣な声で呼びかける。夢人は少し間をあけて振り返った。
何となく出ていける空気ではなくて、オレは咄嗟に壁の影へと隠れる。
離せ、と小さな声と共に腕を振り払う音がした。
ちら、と壁に隠れながら覗くと、夢人が掴まれていた方の手を擦っているのが見える。いつも穏やかな微笑を浮かべている夢人らしくなく、その表情は不機嫌そうに歪められていた。
「兄貴は勘違いしてるだけなんだ」
「……なにを」
ふぅ、と重い溜息を吐き出してから、夢人は問う。
「オレと静也の間には、なにもない。静也は兄貴を裏切ってなんかないんだ」
日月の言葉を聞いて、オレの心臓は緊張に早鐘を打ち始めた。それは正に、オレが夢人に言いたい内容だったから。
夢人は、どんな反応をするのかが知りたくて、でも知るのが怖かった。
嘘を吐くなと怒るだろうか。
信じられないと泣くだろうか。
でも、どんな反応でも、きちんと受け止めよう。
殴られても、罵られても、向きあおう。
今度こそ大事にするから。信じられないなら、信じてもらえるまで傍にいるから。二度と離さないと誓うから。
だから、どうか。
どうかオレを見て欲しい。
そう願いを込めて、オレが見つめる先。
夢人は、オレの予想を裏切って、泣きも怒りもしなかった。
眉間に皺を寄せて目を伏せた彼は、きまり悪げに首の後ろを手でかく。はぁ、と肺の中身を全部吐き出す勢いで嘆息して、冷めた目で日月を一瞥した。
「へえ。……それで?」
「……え?」
え?
オレが胸中で零した声と、日月の戸惑った声が重なった。
「だから、それでオレにどうしろっていうの? お前と静也が付き合っていようがなかろうが、オレには関係ないんだけど」
「な、ないわけないだろ!? だって夢人と静也は付き合ってんだから!」
「付き合ってた、な。過去形だからソコ、間違いないで」
「夢人!」
興味なさげに続ける夢人に、日月が噛み付いた。
本当にどうでもよさげな夢人の声や態度に、オレの心臓が軋む。
嫌な汗が背筋を伝う。ぎゅう、と胸の辺りを握りしめた掌にも、汗が滲んでいた。
「てゆうかさ。お前、オレと静也が付き合っていたって知っていながら、あんな態度だったんだ?」
「……っ! そ、それは……」
「年がら年中引っ付いて、随分楽しそうだったな。ま、お前一人に責任があるとは思わないけどさ。静也にもオレにも、責任はあっただろうし」
「…………ごめん。でも、本当にオレたち、ただの友達なんだよ。静也は、オレにキスさえしてない」
「ふぅん。……で、オレにどうしろって?」
興味なさげな相槌を打って、夢人は小首を傾げた。クセのない黒髪が、さらりと揺れる。
「だから、……ちゃんと話し合って、また恋人同士に戻れよ。きっと、静也もそうしたいと思って……」
「いや。余計なお世話だから」
「なっ、なんで!?」
夢人は、日月の声を途中で遮った。
困惑した日月と同じく、オレも目を見開く。
「そもそもオレ、よりを戻したいなんて思ってないし」
「だから何で!? オレ等の事は誤解だって言ってんのに、何が不満でそんな意地張ってんだよ! 好きなんだろ!? 一緒に居たいって思ってんだろ!? なんで簡単に諦めちゃうんだよ!!」
日月は涙ぐみながら、叫んだ。
夢人は眉間に刻まれた深い皺を揉みほぐすように、指で擦る。傍目にも、温度差が開き過ぎていると分かった。
疲労感漂う様子で夢人は顔をあげ、ゆっくりと口を開いた。
「…………日月」
「……なに」
「オレが今から言う事は、真実だ。意地張っているんじゃないし、後ろ向きになっているんでもない。嘘偽りない本心だから、そこ、理解して」
「わ、分かった」
淡々と早口で捲し立てる夢人に気圧される形で、日月は頷く。
夢人は、大きく深呼吸して、首を回す。準備運動みたいな行動をしたあと、日月と視線を合わせた。
「オレはもう、静也を好きじゃない」
「えっ!」
「っ!!」
たった一言が、刃となってオレの胸を刺し貫く。
シンプル故に、殺傷能力は桁違いだ。勘違いも出来ない。
「嫌いとも違う。憎いってのも、もうない。どうでもいいってのが、一番しっくりくるな」
夢人の言葉の刃が、オレの息の根を確実に止める。
短く吸い込んだまま、オレの息は実際止まっていた。当たり前にしていた呼吸の仕方さえ忘れそうな衝撃が襲う。
好きの反対は嫌いではなく無関心だと、そう言ったのは誰だったか。
確かにそうだ。嫌いとか憎いなら、まだオレへの興味がある証拠。だが、どうでもいいと言われてしまえば、それ以上一体、どうする事ができようか。
「どうして……」
日月の声とは思えない、頼りなげな声で彼は呟く。
夢人は少し考えてから、薄く笑った。それは所謂、苦笑いというものだったが、透明感のある綺麗な笑顔だと思った。
「どうして、か。……そうだなぁ。オレ、静也となら分かり合えるって、勝手に勘違いしていたんだよね」
「勘違いじゃない! 静也は兄貴の事、良く知ってるよ」
「いや。全然まったく知らないと思うよ。オレが猫被ってたって事も気付いてないんじゃないかね?」
言われてようやくオレは、思い出す。
慇懃無礼ともとれるくらいに丁寧な言葉遣いと、優しい微笑が、いつもの夢人のデフォルトだった。今の彼とは、全然違う。
「それは、そうかもしれないけど……」
「いや、別にそれはいいんだよね。猫被っておきながら、本当のオレを見つけて欲しいとか、痛々しい事は言わない。そうじゃなくてさ、オレは静也の意外と不器用な所とか、結構好きだったんだよね」
「不器用? ……静也が?」
「うん。アイツ、手先不器用だよ。カッターで鉛筆とか削らせてみな。新品が一瞬で二、三センチになるから」
不器用なクセに妥協が嫌いだから、適当なとこで止められないんだよね、と夢人は軽く言い放つ。
自分でも気付いていなかった部分を的確に指摘され、オレは驚く事しか出来ない。不器用な事は自覚があったが、妥協が嫌いだとは気付いていなかった。
だが言われてみれば、そのとおりだ。
適当に終わらせる事が出来なくて、資源を無駄にした過去が沢山ある。
「人付き合いも同じ。適当に合わせられないから、敵を作りやすい」
「…………」
「そういうとこ、オレには見せるから、特別扱いされてんのかなって、勝手に自惚れてた」
「……自惚れじゃないよ」
日月の言葉に、夢人は頭を振る。
頑なに否定するんじゃなくて、穏やかな様子で。
「オレはアイツを見てたけど、アイツはオレを見てなかった。オレにも苦手なものが沢山あるって、静也は気付いてもいなかった」
「苦手?」
「オレね、数学嫌い。授業終わったあと、何回も復習しないと理解出来ないことって多いんだよ」
「え……?」
「昔っからそう。物理もそんなに好きじゃない」
「え、で、でも兄貴、昔っから理数系も点数良かったじゃん!」
「それは必死に勉強したからだよ」
「!」
日月は、オレは、絶句した。
限界まで目を見開く日月を眺め、夢人は笑う。自嘲や嘲笑のように歪んだものではなくて、おかしそうに。子供みたいに、目を細めた。
「オレも一応、努力してんの。お前らには見えなくてもな」
その一言を、彼はどんな気持ちで言ったんだろうか。
気付けば、膝から崩れ落ちていた。
膝に頭を埋め、髪を掻きむしる。嗚咽が洩れそうになるのを、必死に堪えた。
後悔ばかりで埋め尽くされた脳裏に、過ぎる映像がある。
放課後の教室で、ノートを見つめる横顔。数学教師である顧問のところに向かう後ろ姿。点数が上がったと、珍しく子供みたいにはしゃぐ笑顔。
気付こうと思えば、いくらでも気付けた。
好きな人のことなのに、オレはなにも分かっていなかった。
「兄貴……! ご、ごめ」
「謝るな」
「……」
「謝らなくていいから、静也と仲良くやりな」
慈愛さえ感じる優しい声に、オレは痛感する。
もうどうやったって取り返せはしないのだ。なにを言っても、もう彼の心には届かない。
失った心は、もう元には戻らない。
コップからこぼれてしまった、水のように。
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