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Side 叔母



「ねえ、夢人くん、一度帰ってきて。ちゃんと、お父さんとお母さんと三人でお話しよう?」

 頬杖をついて見守る私の前では、3つ年上の姉が携帯電話に向けて、必死に話しかけていた。
 クセのない墨色の髪と、長いまつげに縁取られた同色の瞳。桜色の唇が、雪のように白い肌に映える。四十を超えても美貌は衰えない姉の電話相手は、彼女に良く似た顔立ちの息子。長男の夢人らしい。

「うん、そうね。……分かった。待ってるから。じゃあね」

 通話を終えた姉は、ふぅ、と疲れた顔で溜息を吐き出した。

「帰って来るって?」

「うん。次の土日に」

 次の土日……15,16ね。私の予定はどうだったかしら、と脳内でスケジュールを検索する。まぁ、どんな予定が入っていても、絶対同席するつもりだけど。

 私の甥っ子は、二人。
 穏やかで聡明な長男夢人と、天真爛漫な次男日月。

 夢人達の両親である姉夫婦も、姉の旦那さんの兄夫婦も、揃って弟である日月の事を気にかけていた。元気すぎて何やらかすか分からないなんて言いながら、可愛がっているのを私は知っている。
 しかし夫と息子を含め、私達一家が心配なのは、長男の夢人の方だ。

 夢人は、幼い頃から子供らしくない子だった。
 我侭を言って親を困らせる事もなく、無茶をして怪我をしたりもしない。むしろ、泥だらけで駆け回る日月が怪我をしないように、少し離れた場所で見守るお手本のような出来た兄だった。

 そんな夢人を周囲は『良い子』だ、『聡明な子』だと誉めていたが、私からしたら、我慢ばかりしているようにしか見えない。
 察しが良い子だからこそ、親兄弟を思いやって、自分を殺しているように思えてしまうのだ。

 我侭言ってもいいのよ、と諭そうとしても、困ったように微笑むだけ。そんな顔を小学生の夢人にさせる環境が、私は不満だった。
 姉も義兄も、夢人を愛しているのは知っている。
 でもだからと言って、許される事じゃない。幼い子供に甘え過ぎだと、怒鳴ってやりたかった。やんわりと夢人に止められたので、実行はしていないけど。

「急に進学先を変えるだなんて、一体何があったのかしら」

「学びたい事でも出来たんじゃないの? あの子、語学系に興味ありそうだったし」

 すっかり温くなってしまった紅茶を飲みながら、緩い態度で答える。すると姉は、目を丸くした。

「え? ……そうかしら。夢人くんは、理数系の方が向いていると思うんだけど」

「理数系? 何言ってるのよ。あの子、昔から数学苦手だったじゃない」

 今度は私が目を丸くする番だった。

「そんな事ないわ。だって昔から数学の点数は良くて……」

「それは一生懸命勉強したからでしょ! 夢人は子供の頃、数学をうちの息子に教えてもらっていたのよ?」

 理解出来るようになれば、応用には強かったけれど、数学にはたぶん苦手意識があったと思う。
 最初の段階で躓いては、よくうちの息子に教わりに来ていた。

「夢人くんが……?」

「……知らないかったの?」

 姉に向けたことのない、冷たい声が出た。
 呆れというより失望に近い。息子の苦手科目さえ知らなかったなんて、本当に親だろうか。
 私の軽蔑の眼差しに気付いた姉は、気まずそうに俯く。その顔色は、いつもより一層白かった。

「あの子、数学の点数が上がる度に、うちの息子にお礼がてら報告に来ていたの。私や旦那が誉めると、照れくさそうに笑うのよ。可愛くて、可愛くて……泣きそうな顔して笑うあの子が愛しかったわ」

 今思えばきっと、あんなにも泣きそうな顔をしていたのは、誉められ慣れてなかったからだ。
 出来て当たり前だと思われていたから、誉められもしない。あの子の努力は、心ない周囲のせいで日の目を見ることもなく、踏みにじられていた。

「あなた達は、ちゃんと夢人を誉めてあげたの? 『夢人は凄い』なんて言葉で、済ませてしまってはいなかった?」

「……」

「ろくに勉強しない日月が、たまたまとった六十点を誉められている横で、あの子が何を思っていたと思う? 必死に勉強してとった九十点が、誰にも誉められなくて、あの子が悲しくなかったとでも思うの?」

「わ、わたし……っ なんてことを……!」

 姉の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
 夢人の事を愛しているからこその涙。後悔の言葉。でも今更だと思う私は冷たいのだろうか。
 肩を震わせて泣く姉を眺めながら、私はもう一度溜息を吐き出した。

「姉さん。私も次の土日立ち会うわ」

 言葉をかけると、涙に滲む瞳がこちらへ向けられる。

 この人の事は、嫌いではない。
 優しく穏やかで女らしい、自慢の姉だ。嫌いになれるわけがない。そして、義兄も日月も勿論、憎める訳がない。

 でも、それでも。

「義兄さんと話し合って、ちゃんと夢人と向き合って。……その時にまだ貴方達が夢人に甘えるようなら、覚悟して欲しい」

「え……?」

「私はもう我慢しない。どんな手を使っても、夢人はうちで引き取るから」

「!」

 呆然と瞠られた瞳から、宝石のような涙が滑り落ちる。
 そんな様子さえも、絵画のように美しい姉を冷えた目で見つめながら、口を開いた。

「これ以上泣かせるなら、貴方達はもう『夢人の親』じゃないわ」

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