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戦国武将(短編)
藤堂高虎
近江の土豪・藤堂虎高の次男として生まれました。先祖代々領主でしたが、戦国乱世にあって次第に没落し、高虎が生まれた頃には一農民となっていました。はじめ近江を治める浅井長政に仕え、1570年、姉川の戦いで名も無き足軽兵として初陣。数々の首級を挙げて、長政から感状を受けています。その後次第に頭角を表し、長政からも一目置かれる存在となります。1572年(元亀3)に浅井家の阿閉貞征の家臣に、翌年の浅井家の滅亡時は、同じく浅井の家臣だった磯野員昌の家臣となっています。その後、織田信長の甥にあたる津田信澄を経て、1576年(天正4)に羽柴秀長に仕えて、中国攻めや賤ケ岳の戦い、九州征伐・四国征伐に参加しています。秀長の死後はその養子羽柴秀保に仕え、文禄の役に出征しますが、秀保が若くして死去したために、一時期高野山に出家しています。しかし、まもなく秀吉に仕えはじめ、慶長の役では、元均率いる朝鮮水軍を殲滅しています。豊臣政権下では伊予板島に8万石を与えられました。この間秀吉の衰弱を見て、次の天下人は五大老筆頭の徳川家康であると見越して、急速に家康に接近しています。
1598年(慶長3)8月、秀吉没後の対立の時は、予定通り家康方につき、活躍しています。1600年(慶長5)に元五奉行の石田三成らが毛利輝元を擁立して挙兵すると、関ケ原の戦いにおいて東軍に属し、西軍の大谷吉継の軍と戦います。その功により戦後、伊予今治に20万石を与えられました。江戸城改築などにも功があり、最終的には伊賀・伊勢津藩32万石に加増されています。家康の信頼は厚く、外様大名にありながら側近として重用されました。1615年(慶長20)の大坂の陣においては、八尾の戦いで長宗我部盛親隊と戦い、これに辛勝しています。また、1620年(元和6)、徳川家康の孫である和子が入内する際には自ら志願して露払い役を務め、宮中の和子入内反対派公家の前で「和子姫が入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹する」と言い放ち、強引な手段で押し切ったといいます。
高虎は築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城などの築城で知られています。高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比されています。1630年に死去。享年74歳でした。

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あきゅろす。
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