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戦国武将(短編)
原田宗時
1565(永禄八)年に生まれ、1593(文禄二)年に病死するまで伊達家に仕えた武将。宗時は山嶺源一郎の子でしたが、伯父の原田宗政が1582年に戦死し、彼には子が無かったため、跡を継ぎました。
1585年、宗時は浪人の平田なる者を派遣し、芦名の武将を内応させ、会津を攻めました。しかし、平田自身が敵に回ったために、宗時は敗北することになりました。同僚の後藤信康がそのことを笑い、宗時は怒って決闘を申し込みますが、信康に「ここで争ってどちらかが死ねば、それは国の損失に他ならず、死ぬのならば国のために戦って死ぬべきだ」と説かれて、宗時は己の未熟さを知り、以後信康と親交を深めました。
その後、勇将として名を上げた宗時は、1585年に刈松田に出陣して大内定綱に備えました。続いて本宮に出陣すると、今度は佐竹・岩城連合軍に備えました。また、1588年の郡山の戦いでは、評定衆として活躍しました。
宗時は1592年の朝鮮出兵の際、大太刀を背負い、それを金の鎖で結び、駿馬にまたがって現れ、京の人々に「さすがは伊達者の軍勢」と言わしめました。
しかし彼は翌年に朝鮮の釜山で病に倒れました。そして対馬まで帰りますが、そこで亡くなりました。

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