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戦国武将(短編)
山県昌景
はじめ飯富性で、飯富虎昌の実弟。言うまでもなく、甲斐武田氏の重臣です。
若い頃は武田信玄の小姓や使番として仕えていましたが、1552年に侍大将に任命され、戦では大いに活躍。「源四郎の赴くところ敵なし」とまで言われたほどでした。
1565年に信玄の子・武田義信が謀反を企てた際、兄の虎昌が関与していることを承知の上で、その旨を信玄に報告しました。これにより、虎昌の率いていた「赤備え」の部隊は昌景に引き継がれ、昌景自身も断絶していた山県姓を名乗ることを許されました。
その後、軍事のみならず行政でも手腕を発揮した昌景は、重鎮として重用され続けました。
信玄が病に倒れると、その死の際に「信玄死すともその死は三年隠すべし。そして勝頼を補佐してくれ」と頼まれました。
長篠の戦いで、昌景は勝頼に撤退を進言しましたが、受け容れられず、逆に皮肉を言われたため、昌景は死を覚悟して突撃を敢行しました。
全身に銃撃を受けて両手が動かなくなるも、口に采配をくわえて最期まで部隊を指揮し続けた、という、壮絶な死に様であったといいます。
彼の戦死によって、武田家の滅亡は10年早まったというくらいで、その武勇たるや凄まじく、武田随一の勇将でした。
さらに驚くべきは、そんな彼の身長が、わずか130cmほどだったということ。いやはや恐れ入ります。

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あきゅろす。
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