[携帯モード] [URL送信]

戦国武将(短編)
飯富虎昌
赤備えの猛者として知られる飯富兵部少輔虎昌は、永正元(1504)年生まれとされています。
飯富氏は、甲斐源氏・逸見光長の子が飯富源内長能と名乗ったことからはじまる家系と言われますが、河内源氏という説もあり、定かではありません。ですが、一般には、源義家の四男・源義忠の子・飯富忠宗の末裔と言われます。
武田信虎の時代から武田家の重臣として仕え、一度は今井信元・栗原兵庫らと共に武田信虎に対し反旗を翻したこともあるようですが、許され、以降は信虎に従いました。信虎に従って信州佐久に進出した際、内山城を預かっています。
飯富虎昌は、のちに武田二十四将の一人に数えられることからもわかるように、剛勇でもって知られ、敵味方から『甲山の猛虎』と呼ばれて恐れられたほどの猛将です。
その武名に間違いはなく、天文五(1536)年に北条氏綱が駿河に攻め込んだ際には、今川方の援軍として参戦し、北条軍を打ち破っています。
翌々年の天文七(1538)年、諏訪頼満・村上義清からなる連合軍と戦っては、多勢に無勢をものともせず、九十七を数える首級を挙げたとまで言われています。
天文十(1541)年、同じく重臣であった板垣信方・甘利虎泰らと手を結び、信虎の嫡男・武田晴信を立てると、信虎を駿河に追放し、
晴信を主君と仰ぐことになりました。
天文二十二(1553)年、内山城を長尾景虎(のちの上杉謙信)率いる八千の軍に包囲されましたが、その十分の一である八百ほどの兵数にも関わらず、これを追い返しています。
永禄四(1561)年、武田と上杉の第四次川中島の戦いにおける作戦では、啄木鳥戦法による妻女山攻撃の別働隊の大将を務め、作戦を見破った謙信に総攻撃されて苦戦する本隊を救援しました。
こうした功績は武田信玄の虎昌に対する信頼を大きく深め、それは信玄が自身の嫡男・武田義信の守役を虎昌に任せたことなどからも見て取れます。
桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にしてから急速に落ちぶれていく今川家を見て、信玄は今川家を見放そうとしましたが、義元の娘を正室として娶っていた武田義信は、真っ向からこれに反対。父・信玄に対し謀叛を企てます。
しかし、この計画は虎昌の弟・三郎兵衛(のちの山県昌景)の告発によって事前に露見し、虎昌は義信を担いで謀叛を企んだとして捕らえられ、永禄八(1565)年十月十九日、南巨摩の穴山信君の弟・信邦も連座し、その責任を取らされる形で自害。享年六十二歳でした。
ただし、この一連の事件には、いくつかの説があります。
・虎昌はわざと謀叛の計画を三郎兵衛に伝わるよう仕向け、謀叛を止めつつ義信の罪を被った。
・信玄の軍事的な方針に反対することが多く、さらに虎昌が武田家中にあって大きな力を持っていたこともあり、事件をきっかけに信玄自らが粛清に及んだ。
などですが、いずれも定かではありません。
なお、虎昌が死んだことで飯富家は断絶しましたが、三郎兵衛が山県家を継いだので、虎昌の遺臣たちは三郎兵衛が引き取ることになりました。
飯富虎昌。
『甲陽軍艦』の中で「知略抜群の驍将」と評されているように、その存在は武田家中でも随一であり、たとえ信玄に背いていたとしても、その評価が変わることはないでしょう。

[前へ][次へ]
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!