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戦国武将(短編)
大谷吉継
豊臣秀吉の家臣、大谷吉継。
一説には六角義賢配下の大谷吉房の子、もしくは大友宗麟配下の大谷盛治の子とも言われているようです。
羽柴秀吉が近江今浜城主になった頃、その家来となりました。その経緯には、石田三成に自らを売り込み、推挙されたという話や、吉継の母が秀吉の正妻・ねねに仕える高位の侍女だから懇意であった、などいくつか説があります。
秀吉の中国攻めでは大谷平馬という名前で従軍し、戦功を立てたといいます。
山崎の戦いにも参加しています。
天正十一年(1583年)、織田筆頭家老の柴田勝家と秀吉との対立が表面化し、賤ヶ岳の戦いが起こりました。
吉継は、ここではじめて大きな手柄を立てることになります。
秀吉とは違い、勝家の家臣団には一門衆が多く、その中でも勝家の甥である柴田勝豊は有力な一門衆でしたが、秀吉と勝家が衝突する頃、勝家と不仲になっていました。吉継はそこに目をつけ、勝豊の調略に成功したのです。
これは、七本槍に匹敵する三本の太刀と賞賛される大手柄でした。
しかしながら、これ以降、吉継は前線で戦うことより、どちらかというと後方の物資補給・調達などを行うようになります。
天正十三年(1585年)には、従五位下、刑部少輔に叙任されています。
天正十七年(1589年)に、それまでの功が認められて、蜂屋頼隆の没後、越前敦賀5万石を領することになります。
天正十八年(1590年)の小田原征伐にも従軍し、十数万の将兵の支援のために奔走しました。
続いて東北地方の奥州仕置にも従軍し、出羽の検地を担当しています。
この頃、吉継は、当時の仏教観で先生の罪業に因する病として忌み嫌われてた癩病(ハンセン病)を患っており、崩れた顔を白い布で覆っていました。また失明していたともいわれており、そのために政治の表舞台で活躍する機会が無かったとされています。
豊臣政権の五奉行で、石田三成との関係は深い友情が存在したとされ、友情意識に疎いこの時代においては両者の親密さは異様に思われ、同性愛である衆道関係だったと噂されていたようです。
そこまで言われるほどの仲ですから、三成は吉継を「真の友垣」と思い、「紀之介(吉継)ほどの友垣を得たのは終生の誇りだ」とまで言っていたそうです。
こんな話があります。
ある時の茶会で、招かれた豊臣諸将は、茶碗に入った茶を、1口ずつ飲んで次の者へ回す、回し飲みを始めました。この時、病の身である吉継は気を遣って飲むふりだけして回しましたが、吉継が口をつけたと思った後の者たちは、病気の感染を恐れて、飲んだふりをして口をつけませんでした。しかし、三成だけはいたって自然に茶を飲み(一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ちたが、三成はその膿ごと茶を飲み干したとされる)、気軽に話しかけてきました。これに感激した吉継は、以後三成を生涯の友として見るようになったといいます。
ただし、これは秀吉とのエピソードであったという説があるし、そもそも創作だという話もあります。
朝鮮出兵の際、吉継はまたも後方支援を命じられ、敦賀の商人を使って、輸送用の船を調達し、20数万人の兵糧を朝鮮に送りました。
侵略当初、連戦連勝を続けていた日本軍でしたが、明の援軍や朝鮮義勇軍の反撃に遭い、進退に窮してしまいます。日本軍は明との講和を進めることになりましたが、その中にも吉継の姿はありました。
病が重くなり、文禄の役の終結と共に療養に専念することにしますが、療養中でも宇喜多家の内紛の調停にあたったりしています。
文禄三年(1594年)、伏見城築城に参加して功績を立てています。
慶長二年(1597年)、秀吉を自邸に招いてもてなし、多くの贈り物を贈って忠誠を誓ったといいます。そのため秀吉も吉継の長年の忠義を賞賛して、国行の太刀を与えたといわれています。
慶長三年(1598年)八月に秀吉が死去した後、吉継は五大老の徳川家康に次第に接近していきました。慶長四年(1599年)、家康と前田利家の仲が険悪となり、徳川邸襲撃の噂が立った際には加藤清正や福島正則ら豊臣の武断派諸将らと共に徳川邸に参じ、家康を警護しました。その後前田利長らによる「家康暗殺計画」の噂による混乱や、宇喜多秀家家中の紛争を調停しています。
慶長五年(1600年)、家康は、会津の上杉景勝に謀叛の疑いがあるとして、上杉討伐軍を起こしました。家康とも懇意であった吉継は、討伐軍に参加するために領国の敦賀を立ち、途中で元五奉行の石田三成の居城である佐和山城へと立ち寄ります。吉継は三成と家康を仲直りさせるために、三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしたのですが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられます。これに対して吉継は、三度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得しましたが、三成の固い決意を知り、熱意に打たれると、敗戦を予期しながらも息子たちとともに三成の下に馳せ参じ、西軍に与しました。その際、三成の横柄さを心配した吉継は、三成に「おぬしが檄を飛ばしても、普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら家康の下に走らせる。ここは毛利輝元か宇喜多秀家を上に立ておぬしは影に徹せよ」と諫言したといいます。三成は、はじめのうちはこの諫言に従いましたが、西軍が編成されると、次第に元に戻っていったといわれています。
徳川家康は吉継の才能を高く評価し、慶長五年(1600年)7月、会津征伐が終わり次第、12万石に加増することを約束したらしく、吉継が西軍に与したことを知った時、家康は動揺したそうです。
さて、吉継は、決戦の舞台を美濃あたりと位置づけました。
美濃への道のうち、北陸道。北陸道最大の東軍勢力といえば加賀の前田利長です。徳川家康、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家らと同じ大大名ではありますが、家康に生母芳春院(まつ)を人質にとられていたこともあり、東軍加担は間違いありませんでした。
前田家の勢力が越前や近江を通過し美濃に侵攻してくると、西軍にとっては脅威になります。そこで、北陸からの東軍侵攻は、何が何でも阻止しなければならなかったのです。
吉継は越前国内の小大名たちに調略の手をのばし、その結果、府中城の堀尾吉晴の勢力を除いた丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を味方に引き込むことに成功します。
次に吉継が加賀にまで手をのばすと、金沢城から前田家が軍を動かします。しかし、吉継の方が一枚上手でした。前田利長に対し、偽の書状や西軍に心情を寄せている弟の前田利政の利用などにより後背を脅かすと、慎重な性格の利長は兵を退いてしまいます。越前以南に北陸道から東軍が侵攻してくることはありませんでした。
九月、吉継は三成の要請を受けて、脇坂安治や朽木元綱、戸田勝成、赤座直保らの諸将を率いて美濃に進出します。
そして十五日、東西両軍による関ヶ原の戦いが起こったのです。
東軍を取り囲むような西軍の布陣を考えたのは吉継とされています。
吉継率いる大谷隊は、正面に陣取っている、倍以上の数を誇る藤堂高虎や京極勢を蹴散らし、時折宇喜多勢を側面から援護するなど、獅子奮迅の活躍を見せていました。
しかし、正午過ぎに、松尾山に布陣していた小早川勢が寝返ると、形勢は危うくなります。それでも大谷勢は奮戦しました。小早川勢の裏切りを予測していた吉継は、小早川勢の進路に沿って六○○の鉄砲隊を埋伏させておき、小早川勢の通過とともに撃ちかけました。そして、前面の藤堂、京極勢を捨てて全員で小早川勢に突撃をかけたのです。
小早川勢の第一陣、第二陣は容易に打ち破られ、本陣は5町(約550m)あまり後退するほどでした。
大谷吉継の与力として派遣されていた平塚為広と戸田重政は大名の身でありながら自ら槍を振るって奮戦していました。しかし、その一方で、朽木・脇坂・小川・赤座らの諸将は士気も上がらず、吉継は松尾山のふもとに配置して小早川勢の抑えとしての役割しか与えませんでした。
しかし、こともあろうに、その四将までもがが東軍に寝返ったのです。
これにより敗色が濃厚となり、吉継は配下の者に戦場を離脱するように言いましたが、配下たちはみな「小早川勢に討ち入り死に花を咲かせたい」「金吾中納言にお恨みの一太刀を」と言って離脱を拒みました。吉継は「わしは盲目だからそなたらの死に戦を見届けられぬ。そこで一人一人わしの前で名乗りを上げてから行け」と言いました。すると、家臣たちは一人一人名乗りを上げ、敵中に飛び込み、玉砕していきました。
その最期に、吉継は「金吾(小早川秀秋のこと)めは人面獣心なり、三年の間に祟りをなさん」と言い放ち、さらに「三成、地獄で会おうぞ」と言って切腹したといいます。
その後大谷軍の兵士達は、みな同じように、小早川軍を凝視しながら突撃して果てていったそうです。
ちなみに、こんな逸話があります。
藤堂高虎の軍に従軍していた藤堂高刑が吉継の小姓・湯浅五助を発見した時、五助がうずくまっていたので、勝負しようとしてみたところ、五助は「待ってくれ。今、ここに主君の面妖を敵に見せるは恥辱となるので、主君の首を埋めたのだが、私の首の代わりにここに埋めたことを秘して欲しい」と頼んだのを高刑は「武士の面目にかけて他弁は致すまいぞ」と誓い、五助の首を取りました。このことを伏せ、主君の高虎に同行して徳川家康に五助の首を見せると、「五助ほどの者が主君の行方を知らぬはずがない。もしかしたら五助は首を隠したのではないのか?」と聞かれ、高刑は「私は知らない事はないが、五助と他弁をしないと誓って首を取ったのでこのことはどなた様にも言えませぬ。どうぞ、私を御処分くだされ」と答えたので、家康は「これほどの律儀者がいるとはな。首のありかを言えば高虎の手柄になるものを」と言って、褒美を高刑に与えたといいます。

関ヶ原では三成との友情に殉じたとされていますが、実は当初は家康派であり、居場所を失って三成側に寝返ったという説も存在しています。

かつて豊臣秀吉は、夜話の中で、「紀之介を傍らで使ってきたが、あれには悪いことをしたと思う。今夢想するのは紀之介に百万の軍を指揮させ自分は高みで見物したい」と言い、周りにいた者は、みながみな頷いたといいます。

義と意地に生きた石田三成の親友・大谷吉継でした。

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