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戦国武将(短編)
加藤清正
幼名は虎之助。豊臣秀吉と同じ、尾張国中村(愛知県名古屋市)に生まれました。秀吉とは血縁関係があったので、秀吉に仕え始めました。
賤ヶ岳の戦いの時、特に戦功を挙げた七人を「賤ヶ岳七本槍」と言いますが、彼はその一人です。
清正は築城の名手としても知られており、居城にしていた熊本城は名城として知られています。
朝鮮出兵の際、清正は大いに活躍し、朝鮮の民衆からは「鬼上官」と言われました。
ただ、この時、石田三成や小西行長らと対立しています。
秀吉の死後、前田利家も病死すると、福島正則らとともに「三成暗殺未遂事件」を起こしています。
関ヶ原の戦いの時は、東軍につき、九州に残って西軍の大名を牽制していました。
その後、慶長16年(1611年)に徳川家康と豊臣秀頼の二条城における会見を取り持つなど、徳川家と豊臣家の和解の道を模索しましたが、同年に病死しました。
あまりにも突然の死だったのと、家康が清正を危険視していたとされることなどから、家康による毒殺説も囁かれています。
清正については逸話が多く、朝鮮での虎退治をはじめ、セロリを初めて日本に持ち込んだとされることからセロリの別名が「清正人参」であるということ、かなりの潔癖症であり、便所で用を足す際は30cmの高さもある下駄を履いてしていたということ、口の中に拳を入れることができ、後にその話を聞いた新撰組の局長・近藤勇が、尊敬する清正の真似をして拳を口に入れていたということなどが挙げられます。
現代になっても、地元の民衆に愛されている、加藤清正でした。

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あきゅろす。
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