[携帯モード] [URL送信]

戦国武将(短編)
石田三成
豊臣秀吉に仕えた忠臣として名高い石田三成は、永禄三(1560)年に近江の石田村に生まれました。
織田信長の家臣・羽柴秀吉が近江長浜城主になった頃から、小姓として秀吉に仕えはじめたといわれています。
本能寺の変で信長が死んでから天下人を目指しはじめた秀吉は、次第に勢力を拡大し、その中で三成も秀吉の側近として台頭していきました。
賤ヶ岳の戦いに際しては一番槍の手柄を立てたと伝えられているようです。
その翌年に秀吉と徳川家康がぶつかった小牧・長久手の戦いにおいても、従軍していたといいます。
さらにその翌年、従五位下、並びに治部小輔になっています。この年の末には近江水口に4万石を与えられていました。
年が明けて天正十四年、浪人・島左近清興を1万5000石、もしくは2万石で召し抱えたという逸話はあまりにも有名であり、秀吉はこの話を聞いて三成を賞賛したとされています。
秀吉の四国征伐、および九州征伐においては後方支援を担当し、戦いの早期終結に大いに貢献したといいます。
小田原征伐の時には北条方の館林城・忍城の攻略を一任され、両城を陥落させています。
秀吉が朝鮮に出兵をはじめると、三成は総奉行として朝鮮に渡りました。
三成は朝鮮への出兵には批判的であり、積極的に明との講和交渉を進めていたそうです。
文禄四(1595)年には近江佐和山19万4000石の所領を得ています。
秀吉の死後、天下奪取を狙う徳川家康の抑え役として重要な存在だった前田利家が死去すると、三成を敵視していた福島正則、加藤清正、黒田長政、細川忠興、池田輝政、蜂須賀家政、浅野幸長ら、いわゆる武断派が三成の大坂屋敷を襲撃しました。
この時は佐竹義宣によって脱出に成功し、家康の仲裁によって難を逃れていますが、五奉行の座から退いてしまいます。
慶長五(1600)年、いよいよもって野心をあらわにしはじめた家康を討つべく、三成は会津の上杉景勝、並びにその家臣・直江兼続らと共謀します。
まず、兼続は秀吉死後の家康の不義を「直江状」によって弾劾しました。
家康は上杉征伐と称して軍を会津に向かわせます。
そこで三成は大谷吉継らを味方に引き込み、挙兵しました。
三成はこの時、家康に与しようとする大名の妻子を人質にしようとして後世での評価を下げています。
また、伏見城を攻める際にも、籠城側の甲賀衆の家族を人質に取って脅迫を行い甲賀衆を裏切らせるなど、卑劣な行動を見せていたようです。
家康は三成が挙兵するとすぐさま軍を反転させ、西進しました。
そこで三成は関ヶ原にて決戦を挑むことに決め、ここに石田三成率いる西軍と徳川家康の東軍とが雌雄を分かつ関ケ原の戦いがはじまったのです。
ところが、西軍は小早川秀秋らの寝返りによって敗れ去り、三成は伊吹山へ逃亡しました。
そして春日村、姉川、草野谷、高時川、古橋と逃げに逃げた三成でしたが、関ヶ原の戦いから六日ほど経った時、ついに田中吉政の追捕隊によって捕縛されてしまいました。
その後、石田三成は、安国寺恵瓊・小西行長らと共に、六条河原で斬首されました。
奉行としての三成は、近江・堺・博多・陸奥など、様々な地方で活躍しています。三成の政治手腕は卓越したもので、豊臣秀吉の信頼も厚かったようです。
また秀吉にキリシタン弾圧を命じられた時も、極力犠牲を少なくしようと尽力したと伝えられています。
三成が罪人として京中を引きずり回されていた際、ある者に「喉が渇いたので水をくれ」と頼んだところ、「水は無いが、柿ならばある」と言われましたが、三成はそれを断りました。柿を食べて腹を下しでもしたら家康を討てない、との理由であったそうです。
豊臣家に対する忠義においては誰にも負けず、最後まで生きようと意地を貫いた石田三成。潔く死ぬのを良しとした戦国時代の武将たちの中では彼のような死に様は珍しくもありますが、どんなに罵られようとも理想を掲げ続けた彼の心は、きっと澄みきっていたことでしょう。

[次へ]
[戻る]


あきゅろす。
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!